1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争。1942年4月18日、米空母から発進したB25爆撃機により日本は初空襲を受けた(ドーリットル空襲)。1944年6月15日、米軍がマリアナ諸島・サイパン島に上陸(7月7日、日本軍は玉砕)。1944年11月24日、米軍の新型爆撃機B29が、マリアナ諸島から東京を初空襲。1945年3月10日に東京大空襲、3月12日に名古屋大空襲、3月14日には大阪大空襲と全国の都市が空襲され始めた。
1945年7月31日、富山市内にも4万5000枚の「空襲予告ビラ」が撒かれた。翌8月1日の午後10時頃、富山上空に爆撃機の編隊が現れた。空襲警報が発令されたが一発も投弾せずに通り過ぎ、警報も解除された(これは、長岡空襲へ向かう約130機であった)。人々が安心して眠りについた0時半頃、再びB29の編隊が現れた。サイパン島・イスレー飛行場配備の「第73航空団」所属のB29、190機中の173機(他航空団の1機と合わせ計174機)であった。
富山城址公園東南隅を目標中心点として、4500個余りの集束焼夷弾と7800個余りのナパーム焼夷爆弾、300個の集束ナパーム焼夷弾を投下。重さでいうと、1300トンに及んだ。集束焼夷弾は、1個につき110本の小さな焼夷弾が束ねられており、落下の途中、上空1500mで花火のように破裂。約50万本もの焼夷弾の雨が秒速250〜300mで地上に降り注いだ。落下音は初めは「ヒュー」と次第に大きく、後は「ザーッ」と変化して尻上がりに音程が上がった。その後、「ダ、ダ、ダ…ッ」と耳も張り裂ける大響音・地響きとともに着弾したという。遺体は神通川原に何百と並べられ、河川敷は約1ヶ月間燃えに燃えたという。2700人以上の尊い命が失われ、約8000人が負傷。当時の富山市街地の99・5%が焼失。富山の歴史的遺産は一夜にして奪われた。

○神通河原は、もうすきまなく焼夷弾が突き刺さっている。死体のやまである。(戦争体験記)
○松川の川舟は避難する人で大混乱。我れ先にと逃げまどう姿は風も格好もなく、この世とも思われない。(同)
○…数名の隊員と城址公園の石垣に上り、昼食を食べようとしたその時、目の前の堀の中に大空襲爆撃の際、熱い火の海を逃れて堀に入り、亡くなった人々の死体が無数に浮いており、そのうえ焼け焦げと悪臭のひどさに、昼食が喉を通らず…(同)
○大和の建物の中に入りました。エレベーター前のコンクリート柱まできたとき、左側エレベーター扉の前からコンクリート壁際までに黒こげに焼死体の山が2mほど積み上がったようになっておりました。(同)
○翌日、川原に行ってみると、体に焼夷弾の刺さったままの遺体や、黒焦げ、水膨れ、蒸し焼きの遺体、頭や腹がパックリと口の開いた遺体などが並べられていた。(同)
○県庁正面玄関前の城址側の土手から下りて松川に入り、これでひとまず火より逃れる事が出来ると思いました。あたりにはもう大勢の人が川に入っていらっしゃいましたが、川面に落ちる焼夷弾にみな恐怖と緊張のためか声もなく(中略)午前1時過ぎか2時ころだったでしょうか一際焼夷弾の落下がザアーという音と共に雨霰と激しくなり…(中略)父の声に顔を上げると目の前を一瞬兄の顔が横に半分川面に浮かんでゆっくり流れて行くのが目に入りましたが…(同)

参考:「語り継ぐ 富山大空襲 会誌」(富山大空襲を語り継ぐ会)、「富山大空襲・戦争体験記」(編集/富山市民感謝と誓いのつどい実行委員会、発行/富山市)