神保→上杉→佐々→前田と領主が交代 成政の有名な「さらさら」越えも
富山城は、天文12年(1543年)頃、越中西部を治める守護代・神保長職(じんぼう ながもと)が越中東部への進出をもくろみ、越中東部を治める同じく守護代・椎名氏の支配地である神通川東岸の安住郷に、家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城させたお城と言われています。(室町時代の越中守護は三管領の畠山氏でしたが、越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏に、それぞれ守護代として治めさせていたそうです)
戦国時代、織田信長に派遣された佐々成政が当時勢力を持っていた上杉勢らを追い出し、天正10年(1582年)には越中の領主(守護)となり富山城に入城しました。ところが、同年、本能寺の変が発生して信長が亡くなると、柴田勝家と羽柴秀吉との間で織田家の実権争いが始まり、成政は柴田方につきます。天正11年の賤ヶ岳の戦いでは、上杉景勝(かげかつ)への備えのため越中を動けず、伯父・佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すにとどまりました。合戦中の前田利家の寝返り(当初は柴田勝家方)や、上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪することで秀吉に降伏し、越中一国は安堵されます。天正12年に、小牧・長久手の戦いが発生すると、3月頃は秀吉方につく姿勢をみせていたももの、夏頃になって徳川家康・織田信雄(のぶかつ)方につき、秀吉方に立った利家の末森(すえもり)城を攻撃します。末森城を守っていた奥村永福らは決死の篭城戦を展開。戦況は佐々軍が有利で、落城寸前まで追い込んだのですが、金沢城から急報を聞いて駆けつけた前田利家が、高松村(かほく市)の農民・桜井三郎左衛門の案内で、佐々軍の手薄な海岸路から進軍。明け方に到着すると、佐々軍の背後から攻撃し、これを打ち破ったのです。佐々軍は、越中国に撤退しました。小牧・長久手の戦いは、秀吉と信雄・家康の間で和議が成立し、秀吉が政治的勝利を納めます。すると、成政は、厳冬の立山連峰を越えて浜松へと踏破し、家康に再挙を促したという伝説が残っています(さらさら越え)。しかし、家康の説得に失敗し、信雄からもよい返事は得られませんでした。天正13年(1585年)、秀吉が自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲し、成政は信雄の仲介により降伏しました。
親豊臣から親徳川への路線変更 利長の富山城入城と船橋の架橋 隠居した富山城が焼け、高岡城を築く
その後、加賀前田家の領国となりました。慶長4年(1599年)利家が亡くなり、利家の長男・前田利長(加賀藩初代藩主、加賀前田家2代)が跡を継ぎます。ところが、徳川家康に謀反の疑いをかけられ、加賀征伐を企てられます(慶長の危機)。しかし、前田家重臣・横山長知が家康に弁明するとともに、利長の生母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、代わりに珠姫(たまひめ。徳川秀忠と、継室・江〔ごう。浅井長政の三女。母は織田信長の妹・市。姉に茶々、初がいる。〕の次女。天徳院。)を前田家に嫁がせる約束を交わし、これ以後、前田家は親徳川路線に切り替わります。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、利長は東軍に味方します。そして、加賀・越中・能登の三カ国(120万石)の所領を獲得し、日本最大の藩となりました。利長には男子がなかったため、異母弟の利常(としつね)を養嗣子として迎え、慶長10年(1605年)に富山城に隠居し、富山城の整備や城下町の整備に努めました。この頃、旧神通川に船橋が架けられました。ところが、慶長14年(1609年)に富山城が焼失したため、やむなく高岡城を築いて移ります(高岡開町)。
さて、利常は、家康の孫娘・珠姫と政略結婚させられ、松平の姓を与えられる一方、利長は、父・利家から、「どんなことがあっても豊臣秀頼様を守れ!」と遺言されており、豊臣方からの勧誘もしきりに続いて、徳川方と豊臣方との「板挟み」に苦しみ続けたと言われています。慶長19年(1614年)、大坂夏の陣が始まる直前、利長は、病のため高岡城で病死します。江戸時代の加賀藩では、「利長様は御自身で毒を飲まれた」というのが公然の秘密だったそうです。その後、利常は、利長の菩提を弔うため、瑞龍寺(ずいりゅうじ)を建立。1985年から大規模な修理が行なわれ、約10年かけて完了し、1997年に国宝に指定されました。
加賀藩2代藩主・利常の次男が初代富山藩主に 鱒のすしのルーツ、富山藩士・吉村新八の鮎のすし
加賀藩2代藩主の利常は、寛永16年(1639年)、隠居に際し、幕府からの監視の目をやわらげるため、次男・利次(としつぐ)に富山10万石(越中国の中央部。おおむね神通川の流域)を、三男・利治に大聖寺7万石(のちに10万石)を割いて、富山藩と大聖寺藩を立藩しました。(下記に家系図。クリックで拡大)
寛文元年(1661年)には、船橋の船の数は当初の32艘から64艘に増え、日本最大となりました。そして、越中富山の名勝として多くの絵に描かれたり、俳句や和歌に詠まれ、紀行本などでも紹介されました。ちなみに、船橋のたもとの茶店の名物は「鮎のすし」(「なれずし」だったそうです)で、明治以後は「鱒のすし」となりました。〔ちなみに、享保年間に富山藩第3代藩主・前田利興が、家臣・吉村新八の作った鮎ずしを、将軍・徳川吉宗に献上したところ激賞を受けたのですが、この鮎ずしが鱒のすしのルーツと言われています。〕なお、神通川の鱒は、明治期には皇室の御料場に指定されるほどの美味でした(ちなみに、御料場に指定された川は、長良川と神通川のみ。しかも、神通川は、鮎・鮭・鱒の3種が指定。長良川は鮎と鯉)。現在は、川の環境が変わり、神通川で獲れる鱒の量が減ってしまいましたが、「ますのすし」は、今でも富山の名産として根強い人気を誇っています。松川沿いの七軒町界隈やその周辺には、鱒のすしのお店が数多くあります。
富山売薬の基礎を作った富山藩2代藩主・前田正甫公
富山藩2代藩主の正甫(まさとし)は、製薬業に興味を持ち、江戸城腹痛事件で名をあげた反魂丹(はんごんたん)を製薬して諸国へ広め、越中売薬の基礎を作りました。城址公園には、正甫公の銅像が立っています。
(前田氏系図)
滝廉太郎が触れた富山県最初の音楽会 「荒城の月」誕生に少なからぬ影響
明治19年8月から明治21年5月までの約2年間、滝廉太郎が、当時は今の約6倍の広さがあった旧富山城内の附属小学校(現在の富山税務署のあたり)に通っていました。廉太郎の父・吉弘氏が、明治16年に誕生したばかりの富山県の書記官(副知事相当)として赴任していたためです。滝廉太郎が富山に来てまもなくの明治19年11月に富山県初の音楽会が開かれ、その後も毎月開かれました。富山県尋常師範学校附属小学校児童も出演していたそうなので、おそらく滝廉太郎も歌っていたことでしょう。この経験が、後に作曲家を志す一つのきっかけになった可能性があります。また、「荒城の月」を作曲した時、あるいは、明治維新によって取り壊しが進んでいた富山城の石垣を照らす月をイメージしたかもしれませんね。(詳細)
富山県の変遷の図
【参考】Wikipedia、富山市郷土博物館「博物館だより」、『殿様の通信簿』(磯田道史著・新潮文庫)、『明治期の富山における西洋音楽の受容:文献調査による唱歌教育を中心とした歴史の再構築』(谷口昭弘、森田信一/富山大学人間発達科学部紀要,5(1);101-111、http://hdl.handle.net/10110/3335)、他