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「神通川 船橋の図」松浦守美(1824〜1896) 株式会社 源 所蔵

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 慶長10(1605)年、前田利長は藩主を利常に譲り、富山城に隠居しました。富山城は改修され、町割りが行われ、新しい城下が整備されました。この時、それまで舟の渡しだったのを船橋に改めたとされています。場所は、「富山県史 通史編3」によると、今の舟橋の位置より下流側(東側)のいたち川との合流点付近〔現在の本町。桜橋・電気ビルのあたり〕だったようです。(なお、富山市埋蔵文化財センターHPの富山城研究コーナーによると、もう少し上流の現在の安住橋の東側だったとのことです。〈船橋は移転した船橋の設置と変遷〉 「最初の船橋はどこにあったのか?」もご参照下さい)
寛永16(1639)年、初代富山藩主となった前田利次(前田利常の二男)は、富山城下が加賀藩からの借地から正式の富山藩領になった万治3(1660)年の翌年、寛文元(1661)年に、富山城と富山町の再整備に着手し、街道の位置を変更し、城の西側(今の舟橋の位置)に新しい船橋を架けました。
利長の時代の船橋は、元和3(1617)年頃は32艘、寛永8(1631)年には52艘と増え、利次の時代の寛文元(1661)年に64艘になったとみられています。舟1艘の長さは6間(約11m)、幅6尺2寸(約1.9m)、深さ1尺7寸5分(約53cm)。鎖で、舟の先がつながれていました。板は当初は3、4枚でしたが、幕末には7枚まで増やされました。板1枚の長さは5間2尺(約10m)、幅は1尺2寸(約36cm)以上、厚さ3寸(約10cm)であったそうです。
天明5(1785)年、臨床医で医学修行のため諸地方を巡遊していた橘南谿(たちばな・なんけい)が富山を訪れ、日本一の大舟橋とほめ、その支柱は奈良大仏殿の柱よりも太いと驚嘆し、その紀行文は『東遊記』に収めて刊行されました。舟橋から神通大河の上に立山連峰を見晴らす景観は雄大で、多くの文人に深い感銘を与え、富山第一の名勝といわれたそうです。「舟橋の夕照」は『神通八景』(前田利郷作)にも、『長岡八景』(前田利郷・内山逸峰合作)にも『桜谷八景』(自仙院作)にも選ばれました。また、頼山陽の第3子で、尊王攘夷の志士として活躍した頼三樹(みき)三郎は、嘉永元(1848)年、越中を通過した折、舟橋の七言絶句を作っています。この詩は、舟橋北町の森林水産会館前庭の碑に刻まれています。
船橋の両岸には、管理・維持のため番所が置かれ、安全を保つため、富山藩の費用で、毎年、船を3艘、橋板を6枚、それぞれ順次新しくしたそうです。また、大水、大雪、また上流から流れ出た木材などによって、橋が切れ、船や板が流される危険があるときは、切り分けて保護することになっていました。
船橋には次のような伝説が残っています。舟橋の下に巨大なカレイが生息し、人が通ると反転して白い腹を上にし、腹が日光を反射し、人は目がくらみ、橋板を踏みはずして水に落ち、化けカレイに食われたといいます。カレイは川を遡ってくることがあるそうです。
船橋のたもとの茶店の名物は「鮎のすし」でこれが「鱒のすし」となり、富山の名産となっています。ちなみに、鮎の鮨は、享保2年(1717)、富山藩士・吉村新八が創製し、3代富山藩主・前田利興がこれを賞美し、8代将軍・徳川吉宗に献じ、吉宗も激賞し、やがて富山藩から徳川幕府への年々の献上物とまでなりました。そして、新八は鮎鮓漬役に任命されました。「献上鮎鮓漬様覚」の第一条に「鮎は越中国神通川にて取り申し候鮎にて御座候」と神通川産であることが明記された、と廣瀬さん。
『東海道中膝栗毛』で有名な十返舎一九は、紀行文風の小説『越中立山参詣記行 方言(むだ)修行金草鞋(かねのわらじ)』第18編(文政11年、1828年)で、鮎のすしの美味を激賞し、いささか悪ふざけして、あまり美味なので、皆ほっぺたを落とし、あたりにはほっぺたが散乱していたと書き、“名物の鮎のすしとて皆人のおしかけてくる茶屋の賑はひ” と狂歌を一首よんでいます。(『神通川と呉羽丘陵』(廣瀬誠著・桂書房)P135〜136より)

「船橋向かいものがたりー愛宕の沿革」(水間直二編)によると、明治40年4月に神通川漁業信用販売組合が開業したそうで、現在と同じ助作門詰めに設けられたということです。そして、6月に富山名物「鮎のすし」を一般に1個19銭で販売することを決定。その後、明治44年2月16日、「ます」の早ずしを漁業協同組合から売り出したところ、その売れ行きはすこぶる多く、関西地方へも盛んに輸出され、市内の各料理店にも使用されて好評を博しつつあったそうです。そのため、水間氏は、『「ますずし」は明治の終わりに始まったもののようである』、と書いておられます。近代人の好みで、鮎のすしが、鱒のすしに代わったということのようです。
ちなみに、鮎のすしには、早鮨も十数日も漬け込んだ馴れ鮨もありましたが、鱒のすしはすべて早鮨だったそうです。鮎の馴れ寿司「鮎のすし」が一般的で年中作られ、「鱒のすし」はハレの日のもので大変な贅沢品でした。また、かつての鱒漁は1月1日が解禁で、6月半ばまで獲れたそうで、この期間だけ「鱒の寿し」が作られたということです。現在は冷凍技術の発達もあって、年中「鱒のすし」が作られています。
江戸時代の寛政11年(1799年)発行の『日本山海名産図会 第4巻』には、神通川の流し網漁を描いた絵とともに、“海鱒川鱒二種あり。川の物味勝れり。越中、越後、飛騨、奥州、常陸等の諸国にい出れども、越中神通川の物を名品とす”として、神通川の鱒を最上品として位置づけています。神通川の魚は、明治期には、皇室の御料場に指定されるほどの美味でした。ちなみに、御料場に指定された川は、長良川と神通川のみ。しかも、神通川は、鮎・鮭・鱒の3種が指定され、長良川は鮎と鯉の2種でした
「鱒のすし」は、七軒町などの船方が余暇に神通川の鮎や鱒を獲り、魚寿司を作っていたのがはじまりだとも言われます。現在も松川沿いの七軒町に鱒のすしのお店が並んでいます(元祖せきの屋、川上、高田屋、前留があり、少し離れて元祖関野屋、吉田屋、千歳、青山)。
富山にお越しの際は神通川(現・松川)とゆかりのある老舗の「鱒のすし」をぜひ味わってください。

※大正期の神通川漁業信用販売組合市場の様子(提供:富山漁業協同組合)
クリックして拡大すると、左に積み上げられている曲げわっぱに「鮎のすし」「鱒のすし」と書かれていることがわかります。両方売られていた時期もあったんですね。
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なお、鱒の寿司のルーツは、鹿嶋神社の祭り寿司との話もあります。
鹿嶋神社は、桃山末期に有沢に「鹿嶋社」として創建されたそうです。富山藩2代藩主・前田正甫公は鹿嶋の神を産土神として崇敬になり、現在地に遷宮され、富山藩の「裏鬼門除け祈願所」として、磯部一帯に広大な境内地を有しました。
鱒の一番脂の乗る初夏(新暦6月下旬)、春祭りがあり、神通川で川魚を商う鹿嶋の氏子の人達が祭り寿司として、当時から盛んに作っていたとの話も残っているそうです。現在も、鹿嶋神社氏子(七軒町周辺)や近隣の宮司兼務の諏訪社(諏訪川原)、神明神社(鵯島)に老舗の鱒寿司店が立ち並んでいます。鹿嶋の神(武甕槌命)が「柏の葉に乗って神通川を降ってこられた」との伝説もあるそうです。

船橋は、浮橋で川に落ちて水死する人も多く、管理上も不便であったため、明治15(1882)年12月に木橋「神通橋」に架け替えられました。長さは約231m、幅は約7.2mでした。その後、前述のように馳越線が作られ、そちらが本流となっていきました。かつての蛇行部分は廃川地となり、都市計画事業で富岩運河を掘った時に出た土砂で埋められました。その時に、かつての流れの名残りとして(排水路として)、右岸側約20mが残され、現在の松川、いたち川となっています。現在、かつての船橋を偲び、舟の形のデザインを採用した舟橋が架けられ、面影を残しています。

■参考文献
「神通川と呉羽丘陵 ふるさとの風土」(廣瀬誠著・桂書房)
富山市郷土博物館 博物館だより 第二十九号 第三十号 第三十一号  他
富山鎮護 鹿嶋神社 ホームページ(リンク

 

2つの常夜燈

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寛政11(1799)年、町年寄の内山権左衛門(逸径)という人が、舟橋を渡る人の安全を守るため、両岸に常夜燈を寄進しました。写真左側は、現在舟橋の南詰にある右岸側の常夜燈です。少し欠けているのは、昭和20(1945)8月2日未明の富山大空襲で焼夷弾があたったためです。写真右側は、250m程北の富山県森林水産会館前にある左岸側の常夜燈です。

 

■参考

『東遊記 橘南谿』

巻之二
一五 九十九橋(つくもばし) (福井)

越前国福井の町の真中に大なる川流る。此川にかけ渡せる橋をつくも橋という、九十九橋と書けり。其大きさ三条の橋程も有りて、半までは石橋なり。石橋の大なるもの、天下是に勝るものなし。半より木の橋なり、是は常なみの橋なり、石と木を続合わせたる橋は珍敷橋也。いかなる故と尋ぬるに、皆石橋となす時は、大洪水の時全体ともに崩れて其再興大かたならず、半を木の橋にせる事は、大洪水の時、木の所ばかり落ちて水淀まざるゆえに、石の所は恙(つつが)なくして、橋の全体損ずることなし。故に跡の造作心易しと也。大なる橋は何方の橋もかくなしたきもの也。橋を普請の時も、石の所は千歳不朽なれば、只木の所半分の手間にて済む事なれば、別而(べっして)心やすかるべし。又福井の東に舟橋あり。越前にては名高けれども、是は越中の神通川に渡せるものに不及(およばす)。
越中の神通川は富山の城下の町の真中を流る。是又甚だ大河にして、東海道の富士川抔(など)に似たり。水上遠くして然(しか)も山深く、北国のことなれば、毎春三四月の頃に到れば雪解の水殊の外に増来たりて、例年他方の洪水のごとし。常に南風に水増(まさ)り、北風に水減ず。是は南より北の海へ落つる川ゆえなり。かくのごとく毎度洪水あり、其上に急流なれば、常体(つねてい)の橋を懸くる事叶いがたき川なり。されば、舟橋を懸渡すこと也。先ず東西の岸に大なる柱を建てて、その柱より柱へ大なる鎖を二筋引渡し、其鎖に舟を繋ぎ、舟より舟に板を渡せり。其舟の数甚だ多くして百余艘に及べり。川幅の広き事おもいやるべし。其鎖のふとく丈夫なること、誠に目を驚かせり。鎖の真中二所程繋ぎ合わせし所ありて、其所に大なる錠をおろせり。洪水の時切る所なりと云う。両岸の柱のふときこと大仏殿の柱よりも大なり。追追(おいおい)にひかえの柱ありて、丈夫に構えたり。鎖につなぎて舟を浮かめたることゆえに、水かさ増(まさ)るといえども、其舟次第に浮上がりて危き事なく、橋杭なきゆえ橋の損ずることなし。然れども、誠に格別の大洪水の時は此舟の足にせかれて、両方の町家へ川水溢れのぼるゆえに、やむことなくて此鎖の中程を切ること也。其舟左右に分かれて水落つるゆえ、水かさ減ずると也。然れども、此鎖を切る時は、跡にてまた鎖を継(つな)ぐ事莫大の費用あることゆえに、格別の洪水にて町家の溺るる程の時ならでは切る事なし。此舟橋も亦奇観なり。もろこし黄河などにも、晋の時分、舟橋を懸けられしという事聞及べり。いかなり大河急流なりとも用いらるべき橋也。
越前福井の舟橋の鎖は、柴田勝家の造り置かれし鎖也といえり。誠に此鎖容易の事にあらじ。又奥州南部の城下にも舟橋あり。是も大なれども越中の船橋に不及(およばず)。
舟橋のある所天下に右三ヶ所なり。其内、越中を第一とすべし。
其外、常の橋の長きものは、世人のよく知る所の東海道の岡崎の矢矧(やはぎ)の橋なり。其長弐百間ありと云う。是を天下第一とす。橋の巧みをつくして奇妙なるは、周防の岩国の錦帯橋也。唐画のごとくなるは、長崎の眼鏡橋也。危きは甲州の猿橋、高くして奇なるは越中の相本の橋なり。其外、辺国(へんごく)、山中に懸渡せる所の小橋には、朝六つの橋、かずら橋など、奇妙の橋少なからず。朝六つの橋は飛騨国の山川にかけ渡せる石橋にて、いかなる暗夜といえども、其橋の上に到れば少し明らかになりて、人顔も朧に見え、たとえば朝六つ比(ごろ)のあかりのごとし。故に土俗むかしより朝六つの橋と名付くとかや。物知れる人のいいしは、此橋の下には名玉(めいぎょく)あるゆえなるべしと、誠にさもありぬべく覚ゆ。

解説より
※橘南谿は江戸時代後期の医家として知られた人で、医書の著述にも富んだ人である。刊行された医書としては『傷寒邇言』など『傷寒論』に関するもの三部、また、『雑病記聞』その他がある。一方、文人としても寛政期の人々に知られて、漢詩文も世に残り、彼の『北窓瑣談』の著は、寛政期京都の文人の名随筆として、今日に至るも評判の高い書である。南谿が今日においても世人に知られるのは、この『北窓瑣談』と、本書の『東西遊記』によるところがはなはだ大であると考える。とりわけ、『東西遊記』は近世後期のベスト・セラーズの一書であって、更に明治以後に至っても数種の活字本が出刊されたロング・セラーの旅行記録である。
『東西遊記』は一読して知られるように、日本諸地方を南谿が自身巡歴して得た実地の奇事異聞を基幹として編纂した日本発見の報告書である。
南谿は三十歳、天明二年(一七八二)の夏に京都を出発し、西遊の途についた。爾来、足かけ七年、天明八年(一七八八)、三十六歳までに断続して四回にわたり、三陽・九州・四国地方、近畿・南海、信濃方面、北陸・東北から関東の地域にと、日本諸地方を巡歴する。南谿がこのように諸地方を巡遊したのは、しかし、奇事異聞を求めることが第一の目的ではなく、彼自身の本業たる医学の修行のためであった。(中略)彼は医家としては臨床医であって、自身の眼でもって諸事物を親しく見、自身の経験に基づいて適切なる医療を施すことを基本としていた。そのための廻国であり巡歴でもあったのである。なお、彼は医学の理論・体系の建設を指向する医学者ではなく、また、薬物研究の本草学者でもなかった。(中略)彼は江戸時代中期の宝暦三年(一七五三)伊勢国久居(ひさい)(三重県)に生まれた。父は宮川保長といい、宮川家は代々、久居藤堂藩の家臣であった。(中略)天明五年(一七八五)は南谿三十三歳である。秋九月、門人、丹生養軒を連れて東遊の旅に出た。彼らは京都を発って越前の敦賀を訪れ、北陸の路を北上した。越前は粟田部・福井・三国を経、加賀に入り、山中温泉・小松を経て、手取川では吹雪の難に遇い、金沢に至る。越中に入って、高岡から富山へ。富山でこの年を送った。
天明六年(一七八六)、富山における見聞は記録するところ豊かであった。春、富山を発ち、市振・親不知子不知を通り、増水した姫川を舟で渡り、名立・長浜を徒歩で通り、直江津に三月八日に到着した。この地から佐渡に渡ろうとして失敗し、九死に一生を得、後悔の年を遊記に記す。〜

 

■参考2

富山市郷土博物館のホームページに詳しい説明があります。

○越中富山の船橋1
○越中富山の船橋2

 

■参考3

越前舟橋跡(福井県福井市/現在の九頭竜橋)Googleマップ

福井市中心部からフェニックス通りを北に進み、九頭竜川とぶつかるところにあった。天正年間に柴田勝家が、越前浦々から48艘の舟を集め、刀狩りの鉄で作った鎖で繋いだ舟橋を架けたそう。江戸期の福井藩主松平氏も舟橋の制度を受け継ぎ、この頃の記録には、舟48艘、橋の長さ120間(約218m)、鎖520尋、毎年修理を加えているとある。出水の時は舟橋を撤収する決まりとなっていたが、舟を流失することもしばしばあった。なお、この近辺は、12世紀半ば、木曽義仲が北陸路から京へ攻め込む時に戦場になったという。

『神通船橋の次に大きかった 越前舟橋の跡 九頭竜橋』(月刊グッドラックとやま)(リンク
『北の庄城址・柴田公園のご案内』(福井市)(リンク

 

南部舟橋(新山舟橋)跡(岩手県盛岡市/現在の明治橋)Googleマップ

http://www.iwatabi.net/morioka/morioka/hasi.html
明治橋(舟橋跡)概要:明治橋は案内板によると「藩政時代、ここは盛岡城下の入口に位置し、北上川舟運の起点であったことから、人が集まり物資の流通も多く、奥州道中筋の要所でした。北上川は、この盛岡で雫石川、中津川、簗川と合流し、大河の様相を呈し、架橋が難しく当初は舟渡しでしたが、延宝8年(1680)頃にこの場所に舟橋が架設されました。舟橋は両岸に巨大な親柱と中島の大黒柱を立て、20艘ほどの小舟を鉄鎖で係留し、その上に長さ2間半から3間(約5〜6m)ほどの敷板を並べて人馬が往来できるようにしたもので、増水時には敷板を撤収し、舟を両岸に引き揚げて、「川止め」にしました。舟橋は大河に架橋できない当時の知恵であり、明治7年(1874)に木橋の明治橋が出来るまで存続しました。 盛岡市教育委員会 」とあります。舟橋跡は盛岡市指定史跡となっています。長さは約200m。

https://www.cafe-dragoon.net/trip/tatemono/iwate_pref/morioka/funabashi.html
明治橋付近、盛岡市下町資料館向かいに明治橋の碑があるそうです。