富山で感性を育んだ
滝廉太郎

 

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 滝廉太郎と言えば、小学校や中学校で習う「荒城の月」などの名曲で知られる明治時代の著名な作曲家。日本の新しい音楽のさきがけといわれています。わずか23歳10ヶ月という短い人生でしたが、少年時代の約2年間をここ富山で過ごしています。芸術文化の街づくりを目指す富山市にとってこんな素晴らしい歴史的事実を活用しない手はありません。今回は、滝廉太郎がなぜ富山に来ることになったのか、後の作曲にどのような影響を与えたと考えられるか、今一度探ってみることにします。

(月刊グッドラックとやま 編集部)

旧富山城内の小学校で学ぶ

「えっ?滝廉太郎が富山に住んでいたことがある?本当?」
最初に聞いた時、びっくりしますが、確かに滝廉太郎は富山に住んでいたのです。
東京音楽学校(今の東京芸術大学)時代の自筆の履歴書にはしっかりと「富山県尋常師範学校附属小学校」(以下、附属小学校)と書かれています。(現在の富山大学人間発達科学部附属小学校)
附属小学校は、旧富山城内の旧富山藩の藩校・広徳館の跡(現在の富山税務署のあたり)にあり、滝廉太郎は、小学校1年生の途中から3年生の途中までこの学校に通っていました。
住まいは、父・吉弘氏の履歴書(富山県転任退官等高等官履歴、富山県公文書館蔵)によれば、「富山県上新川郡富山千石町百九十七番地」(現在の千石町四丁目六番)の官舎で、ここから滝廉太郎は旧富山城内の小学校に通っていたということになります。(城内にも官舎があり、そこにも一時住んでいたとみる歴史家もあります)
ちなみに、廉太郎少年が一家で富山に移ったのは、明治19年(1886年)8月で、翌9月から富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入していますが、その年の11月に、富山県初の音楽会が師範学校講堂で開かれ、附属小児童も参加しており、おそらく廉太郎少年も一緒に歌っていたと考えられます。この音楽会の「音楽会規則」によれば、第一に「本会は毎月一回本校及び附属小学校の生徒をして平素授けし所の唱歌等を演奏せしめ益熟達せしむる以て趣旨とし傍らを広く世人に雅正の音楽心を感発せしめんことを要するものなり」とあり、第二に「和漢洋古今各種異同あるを以て参考かつ参聴人の余興に供せんが為漸次演奏す。その種類左のごとし 唱歌 保育唱歌 神楽 催馬楽 雅楽 高麗楽 朗詠 東遊 筑紫琴歌」とあり、この時廉太郎少年は様々な音楽に触れ、感性を育んだと考えられます。
富山での音楽にあふれた生活と、美しい自然の中で滝廉太郎少年は豊かな感性に更に磨きをかけていったことでしょう。そして、名曲「荒城の月」にもつながった可能性も高いのです。
ところで、なぜ、滝廉太郎は富山に来たのでしょうか?それは、父・吉弘氏が富山県の書記官(今の副知事に相当)に任ぜられたからです。
富山県は、明治16年に石川県から分離・独立して誕生しましたが、その当時の県庁機構は、第一部・第二部・収税部・警察本部などから組織され、このうち第一部と第二部はその長に書記官が置かれ、吉弘氏は第二部長兼会計主務を命ぜられたのです。

横浜で西洋音楽に触れる

滝廉太郎は、明治12年(1879年)に東京で生まれましたが、滝家はもともと豊後国日出(現在の大分県速見郡日出町)において日出藩主木下氏に仕える名門。代々、家老などの要職についていました。吉弘氏も明治3年に日出藩権大参事になり、翌年の廃藩置県の後、改称された日出県の政務を行うなど、中心的な役割を果しています。
そんな父・吉弘氏が上京したのは、時代の動きに敏感に反応してすでに上京していた旧日出藩士からの強い勧めがあったからです。当時、明治新政府は多くの有能な人材を登用していましたが、吉弘氏もその一人だったわけです。
吉弘氏は、大蔵省勤務のあと、内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文という大政治家のもとで10年近く中央の官吏として働いたあと、地方官吏に転出しました。
まず最初が明治15年(11月4日着任)の神奈川県少書記官で、次が明治19年(8月28日着任)の富山県書記官、明治22年に大分に戻り大分郡(同3月14日着任)と直入郡(明治24年11月27日着任)の各郡長を歴任し、28年に正式に官職を辞しています。
滝廉太郎は明治12年8月24日生まれですから、父が神奈川県少書記官になって一家が横浜に移り住んだ時には3歳になっていました。
当時の横浜には、西洋の多くの文物が流れ込んでいました。象徴的なものは、明治5年に新橋・横浜間に開業した鉄道やガス灯です。廉太郎の姉のジュンは外国婦人に洋裁や編み物を教わり、ヴァイオリンやアコーディオンを習っていたそうです。廉太郎が洋楽を志し、留学に情熱を傾けるようになったのはこの頃の影響と、富山で受けた音楽教育が大きかったと推測されます。

当時の富山城跡

富山城は、藩政時代は現在の城址公園の約6倍の広さがありました。しかし明治の廃城後、各地に散在した遊郭等が千歳御殿跡に集められ、三之丸も順次払下げが進んでいました。本丸御殿や石垣、時鐘台、内堀は残されていました。(現在の天守閣は、昭和29年の富山産業大博覧会に合わせて建てられました)必要のなくなった外堀は埋め立てられ、富山県中学校や県会議事堂等の新しい建物が建てられていきました。学校や寺院を建てる際には砂持奉仕が行われ、その様子が明治20年6月13日付けの「中越新聞」に掲載されています。「其模様は熟れも大八車に砂を積み載せ、車の前後左右にハ砂持等の文字を大書したる数旒の紅白旗を翻がへし、車轅の両端に長き縄を結付け、七 八歳の小児輩にハこゝが一番と晴の緋縮緬や天鵞絨の襦袢股引を着せ、華笠を冠らせなど、最と(も)美々敷扮装にて縄に取付き前駆仁和賀連の囃しを拍子にヤンヤヽヽヽと市街を打廻り行きつ戻りつ中々の賑ひなり」とみんな明るく賑やかに作業を行っていた様子が良くわかります。廉太郎少年も同年代の子供達の楽しそうな様子を眺めていたのではないでしょうか。
城跡の北側には、当時はまだ神通川の本流が流れており、一帯には豊かな自然が溢れていました。(神通川の馳越線工事〔ショートカット〕による直線化は明治36年に完成。かつての神通川河道は戦前の都市計画で埋め立てられ、名残として残された川が現在の松川です。)おそらく廉太郎少年は、明治という新しい時代の到来で破壊されていく旧体制の遺構「富山城」や、変わり行く街並みをその目に焼き付けたことでしょう。また素晴らしい富山の四季を満喫したに違いありません。20歳頃、廉太郎は組曲「四季」を作曲しています。その中の「雪」は大変美しいメロディですが、富山時代の冬を思い起こしたものと言われています。また、有名な「花」も春うららの神通川(今の松川のあたりか?)を上り下りしている舟人を連想したかもしれません。(実際の歌詞は隅田川ですが)
「納涼」の歌詞には、「ありそ海」という言葉が出てきます。「ありそ海」は、越中の歌枕で、越中国守として赴任した大伴家持が越中で詠んだ歌「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(万葉集巻十七)に出てくる「荒磯」とされ、富山湾沿岸一帯を指しています。ですから、明治19年の8月末に、親知らず子知らずの難所を通って富山にやってきた思い出を懐かしんで、廉太郎が東くめに頼んで歌詞の中に入れてもらったのではないか、そうでなくても、歌詞の中に「ありそ海」の文字を見つけた時、懐かしい富山を思い出したのではないかと想像がふくらみます。
また、「お正月」「雪やこんこん」(一般的に歌われているものとは異なります)「桃太郎」などの幼稚園唱歌も富山にいた頃をなつかしんで作ったと言われています。
その他、「雁」という曲を作詞作曲していますが、これも、富山の月の夜に見た雁を思い出して作ったと言われています。

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冬の富山城址公園

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かつての神通川、松川

富山県知事代理を務めた父

ここで、父・吉弘氏の仕事ぶりを振り返ってみたいと思います。
吉弘氏の名は明治20年2月25日の「本県録事」の欄に知事代理として出てきます。これは、2月に国重知事が上京して不在となったためで、以後3ヶ月間、代理として県令などの示達者名に吉弘氏の名前が出てきます。また、この間、知事代理として富山県巡査教習所や尋常師範学校の卒業証書授与式にも臨席しています。4月下旬に知事が帰県し吉弘氏の知事代理の任が解かれた後も、諸学校巡視のために来県した文部大臣森有礼に同行し、午前3時近くまで碁の対局をするなど様々な行事に出席したことが記録として残っています。

父・吉弘氏の非職

さて、滝一家は、明治21年4月に富山を離れます。父・吉弘が4月20日に非職になったためです。転勤ではありませんので、吉弘氏には次の仕事の当てはありませんでした。一家は、東京の麹町に転居します。廉太郎は、4月、東京麹町小学校2学年に転入し、5月に3学年に進級しています。(ちなみに、明治22年3月14日に、父が大分県大分郡長に任じられますが、廉太郎は祖母らと東京にとどまります。しかし、明治23年5月、大分県尋常師範学校付属小学校高等科第1年級に転入学しています。なお、5月31日に、病弱だった姉のリエが亡くなっています。明治24年12月末に一家は豊後竹田に転居しています。そして、明治27年5月に東京麹町の従兄滝大吉の家に寄宿し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町「芝唱歌会」に入っています。)
その原因は、初代富山県知事の国重正文氏との溝が深まったためとされています。国重知事の出身は長州藩で、吉弘氏の出身は日出藩。日出藩には強い藩閥がなかったことが理由ではないかというわけです。
また、一説には、明治19年12月に、神通川に架けられたばかりの「笹津橋」が明治20年に損壊した事故?において、その責任を取らされた「引責非職」であったとも言われています。
送別の宴が、現在松川茶屋があるあたりに建っていた対青閣において、国重知事をはじめ、判事や検事、郡長など90人程が出席して催され、その様子は「中越新聞」に掲載されました。

「荒城の月」のメロディの背景にあったものは…

ここで、滝廉太郎の傑作「荒城の月」と富山での生活とのかかわりについて、もう少し考察してみたいと思います。
「荒城の月」は、明治34年に出版された「中学唱歌」に「箱根八里」「豊太閤」とともに収められています。「中学唱歌」は、東京音楽学校が教科書としてこれまでにないすぐれた唱歌集を目指したもので、編纂にあたって作歌と作曲を文学者・教育者・音楽家などの専門家に広く求めました。
まず、当時の文士に作詩を求めましたが、その中の一人に土井晩翆がいました。晩翆は、東北仙台に生まれ、第二高等中学校(後の旧制二高)を終え、東京帝国大学英文科に進学。明治30年に卒業したあと、中学で英語教師をするかたわら詩作を行い、明治32年に発表した処女詩集「天地有情」で一躍名をはせていた頃でした。彼は、3編の依頼を受け、その中に「荒城の月」がありました。晩翆はこの題を見て、以前訪れたことのある会津若松の鶴ヶ城がまず脳裏に浮かんだそうです。ご存じのとおり、会津藩は徳川親藩で、明治維新の動乱期に朝廷側に敵対し、戊辰戦争で悲劇の落城を遂げた城です。
この「荒城の月」を含む歌詞が公表され、一人3曲と限られて曲が一般公募されました。
滝廉太郎は、それらの歌詞の中から、「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」を選び、作曲し提出しました。そして、3曲とも選ばれたのです。
廉太郎が数ある詩の中からなぜ「荒城の月」の詩を選んだのかさだかではありませんが、父の転勤により富山城、大分の府内城、竹田の岡城、東京の江戸城、そして、滝家の出身地・日出の暘谷城とさまざまな城を見ていたことも関係あるかもしれません。
廉太郎は、晩翆のように「どこの城が脳裏に浮かんだ」ということは一切言っていないのでなんとも言えません。しかし、生まれて初めて「城郭」の中へ入ったのが富山城であった(江戸城は皇城〔現・皇居〕となっていた為に立入りができず、横浜は開港によって新しく作られた街で城はなかった)こと、通っていた小学校が富山城内にあったこと、「納涼」「雪」「お正月」「雪やこんこん」「雁」など、富山時代を懐かしんで作ったといわれる曲が多いこと、またこれらの曲を作曲した明治33年は富山出身の福井直秋(後に武蔵野音楽学校を創立)が東京音楽学校で授業補助をしていた廉太郎の授業を受け、非常に親しくしていたこと等を考えると「富山城」ではなかったかという推測が成り立ちます。当然、父母などから、豊臣秀吉に破れた佐々成政の悲哀のこもった話も聞かされていたと考えられます。
「荒城の月」の清らかで寂しげな旋律が、今も昔の面影を残す富山城址の石垣越しに見る月とぴったりマッチするのは、廉太郎の脳裏にも同じ光景があったからかもしれません。
富山10代藩主、前田利保も富山城と月を題材にこう詠んでいます。
「矢狭より月影もるる城際の岩垣沼にかはづ鳴くなり」
美の求道者、滝廉太郎。彼は、特有の敏感さで富山の自然の美しさと哀愁のこもった歴史を感じとり、のちに素晴らしい旋律として表現したといえるのではないでしょうか。
つまり、富山の風土が滝廉太郎の感性を育んだといってもいいのではないでしょうか。

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冬の立山連峰

(参考文献)
「瀧廉太郎」 松本正著 大分県教育委員会、「荒城の月」 山田野理夫著 恒文社 他
富山市郷土博物館ホームページ
「明治期の富山における西洋音楽の受容:文献調査による唱歌教育を中心とした歴史の再構築」(谷口昭弘、森田信一/富山大学人間発達科学部紀要,5(1);101-111、http://hdl.handle.net/10110/3335

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2003/3/25 一部追加
2005/12/1 追記
2006/1/18 追記
2014/1/22 追記

◆滝廉太郎 年表◆

1879(明治12年)8月24日 東京都芝区南佐久間町2丁目18番地に生まれる。父 吉弘(38歳)、母 正子(29歳)
1882( 同15年)11月 父が神奈川県書記官となり、横浜に転居。
1886( 同19年)8月 父が富山県書記官に栄転となり富山市に転居。
1886( 同19年)9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。(7歳)
1886( 同19年)11月 富山県初の音楽会が師範学校講堂にて開かれる。附属小児童も参加。
(以後、毎月1回開催。明治20年2月以降は毎月第2日曜を定日として開催)
1887( 同20年)2月25日 父が知事代理となる。(〜4月22日まで)
1887( 同20年)10月 父が来富した文部大臣 森有礼に随行して各学校を視察。
1888( 同21年)4月 父が非職を命じられる。
1888( 同21年)5月 傷心のうちに富山を離れる。東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。
1889( 同22年)3月 父が大分県大分郡長に任じられる。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)
1890( 同23年)5月 廉太郎も、大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。
1891( 同24年)11月 父が大分県直入郡長に転じる。
1891( 同24年)12月 一家、豊後竹田へ転居。
1892( 同25年)1月 大分県直入郡高等小学校2年に転入。
1894( 同27年)5月 上京し、麹町の従兄滝大吉の家に寄宿。音楽学校受験準備のため芝区愛宕町の「芝唱歌会」に入会。
1894( 同27年)9月 東京音楽学校(予科)へ入学。(15歳)
1895( 同28年)9月 同校本科へ進学。
1898( 同31年)7月 本科を首席で卒業。9月に研究科入学。
1899( 同32年)9月 音楽学校嘱託となる。(20歳)
1900( 同33年)6月 ピアノ・作曲研究を目的として、満3ヵ年のドイツ留学を命じられる。
この年、「荒城の月」「花」を含む組曲 「四季」 「箱根八里」 「お正月」など、多数作曲する。
1901( 同34年)4月 ドイツ留学へ出発。10月、ライプチヒ王立音学院入学。
1902( 同35年)10月 病気のため、ドイツより横浜港に帰省。大分市の父母のもとで療養。
1903( 同36年)2月 遺作となる「憾(うらみ)」を作曲。6月29日、病死。(23歳10ヵ月)(神通川馳越線工事完成)
1988(昭和63年)3月 富山を離れてちょうど100年、彼が遊んだ神通川(現松川)に遊覧船『滝廉太郎丸」が浮かぶ。

◆富山在住期間◆
1886年8月〜1888年5月(1年8ヶ月)

 

荒城の月(作曲/滝廉太郎 作詞/土井晩翠)

一.

春高楼の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけ出し
むかしの光いまいずこ

二.

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそいし
むかしの光いまいずこ

三.

いま荒城の夜半の月
変わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかずら
松に歌うはただあらし

四.

天上影はかわらねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
嗚呼荒城の夜半の月

 

★滝廉太郎と縁のあった富山県人…福井直秋(武蔵野音楽学校〈現在の武蔵野音楽大学の前身〉創立者)
福井直秋は明治10年(1877)、上市町の浄誓寺住職の五男として生まれました。富山師範学校では、暇があればオルガンの前に座って歌う直秋の姿があったといいます。卒業後、音楽への思いを断ちがたく、明治32年(1899)東京音楽学校へ進学し、授業補助をしていた滝廉太郎と出会います。富山の思い出話をよくしたという話も伝えられます。直秋は、滝廉太郎を「私の師であり、畏友であった」と語っています。(リンク:「同時期に富山で音楽を学んだ 滝廉太郎と福井直秋」〈月刊グッドラックとやま2014年12月号〉)

★前述の「明治期の富山における西洋音楽の受容:文献調査による唱歌教育を中心とした歴史の再構築」(谷口昭弘、森田信一/富山大学人間発達科学部紀要,5(1);101-111、http://hdl.handle.net/10110/3335)によると、  野中武雄氏という人が、富山における最初の西洋音楽の教師であったといいます。明治時代の国学者でもありました。野中武雄氏は、嘉永元(1848)年5月6日、越中国・中野町生まれ。明治3(1870)年、平田延胤の門に入り国学を学び、神道を極めようと石川県神道中教院と愛知県神道中教院に学びました。さらに雅楽師山井影順と林広継に雅楽を学び、石川県気多神社、愛知県熱田神宮で神職を務めた後、現在の富山県が誕生する前の明治15(1882)年6月、石川県富山女子師範学校および男子師範学校の教官となりました。野中は音楽取調掛(東京音楽学校の前身)に伝習生として学び、明治18(1885)年7月20日、「修業証付伝習生」として卒業しています。また式部職,雅楽稽古所等でも学び,音楽家として知られていました。彼は明治4(1871)年、富山藩宣教掛を命じられたといいますが、別の資料では、富山県師範学校のルーツとなる新川県講習所(明治6 [1873] 年創立)に創設当時から教員としてかかわり、明治8年に一度退職しています。その後、能登国気多神社や尾張国熱田神社で神職を務めた後、明治13(1880)年に助教として師範学校に再赴任。明治22年5月、奈良県師範学校に転任するまで教鞭を執っていました。つまり、滝廉太郎が富山市に住んでいた、明治19年8月〜明治21年5月まで、富山師範学校で音楽を教えていたということになります。そして、その間(明治19年11月〜)、師範学校の講堂で、滝廉太郎も通う師範学校附属小学校の生徒も参加し、月1回の音楽会が開催されていたのです。東京音楽学校の前身で学び、情熱溢れる野中先生に滝廉太郎はどんな影響を受けたのだろうか、と想像が膨らみます。

 

参考リンク:月刊グッドラックとやま