富山市の中心部を流れる松川といたち川。
これらの川は大河・神通川のかつての川筋を今に伝えるいわば「なごりの川」。
戦国時代は、富山城主・佐々成政が、当時ここを流れていた神通川を天然の外堀として富山城の北側の守りに利用し、いたち川も整備し東側の守りに利用した。
その後、前田家が治めるようになってから、文政(1818-1830)から安政年間(1854-1860)にかけては、帆船(帆立舟)が富山城あたりまで上ってきていたという。なお、お城が水に浮いているように見えたので、「浮き城」と呼ばれていたらしい。
※補足 富山商工会議所発行の「佐々成政を往く」(遠藤和子さん監修)というパンフレットによると、下流のいたち川に架かる八田橋一帯が当時八田ノ瀬と呼ばれる戦術上の要衝だったそうで、戦になるとこの付近に材木を沈めて神通川(当時)の流れを堰き止め富山が浮き城になるように流路設計がされていたとのこと。

しかし、蛇行して流れていたがために、大雨の際には水害があとをたたず、明治34年、県はオランダ人技士のデ・レーケが提案していた神通川の直線化を実行することにしたと伝えられている。(明治36年完成。馳越線工事と呼ばれる)

まず、新たな河道となる場所の中央に小さな溝(幅2m、深さ1.5m)を掘っていき、大雨を利用して土砂を下流に流した。(ところが、そのために河口の岩瀬の港が土砂で埋まって、後に大変な問題となったらしい。参考記事
新しい河道ができると、蛇行部分には水があまり流れなくなり、廃川地となった。(大正3年8月14日未明の豪雨が神通川の直線化を決定づけたという。)
これが、富山市中心部を分断し、市の発展を阻害しているとして問題となり、廃川地は都市計画事業で埋め立てられることに。しかし、すべては埋め立てず、右岸側の10数m〜20mは、後世にかつての神通川の川筋を伝えるため、残されることとなり、それが、今の松川といたち川(松川との合流点の下流側)。

ただ、下記リンクでも触れられているが、最初から神通川を直線化しようとしたのか、大雨が降った時だけ堤防を乗り越えて(馳せ越して)流れる放水路的なものを作ったのかははっきりしていないようだ。

(参考リンク)
「神通川と松川の歴史」(グッドラックとやまバックナンバーより)
http://matsukawa-cruise.jp/reading/hasekoshisen-constraction/

「デ・レーケと富山」(グッドラックとやまバックナンバーより)
https://matsukawa-cruise.jp/reading/johannis-de-rijke/

■その後の調査でわかったこと
※富山市郷土博物館の「博物館だより」第二十七号によると、本流が1丈(約3メートル)以上まで増水した場合にだけ馳越線に水が流れるようにしていたのは、愛宕・牛島村および対岸の桜谷村を貫通していた農業用水を保護するためだという。馳越線工事が始まる少し前、西の方から伸びてきた鉄道が、富山市内に到達し、明治32年3月20日に仮の停車場(初代富山駅)が田刈屋地内に開業した。なぜ、その場所にできたのかというと、この馳越線工事の計画があったからと、各地で駅の誘致運動が行われていたために、駅の位置が決定されなかったからだという。
その後、堀川村案、奥田村案、愛宕・牛島村案などが出され、当初は奥田村案が最有力だったそうだが、富山実業協会というところが、愛宕・牛島案を推していた。(「富山市経営策」)。同協会は、愛宕・牛島村は市街中心部から近く交通上便利で、かつ間接的に水害を予防することになると述べた。それは、この場所に停車場ができれば、上記の農業用水を撤去せざるをえなくなり、1丈以下の水量でも馳越線に水を流すことができるという理論だった。最終的にこの案が採用され、富山駅の新築工事が現在の位置で始まった。水害を防ぐために土盛りした上に駅舎がつくられることになり、そのための土を大量に採取したため、駅北は大きな沼地となり、これは「牛島のどぶ」と呼ばれ、昭和30年代まで残っていたという。
廃川地となった神通川跡地は、市街を分断して都市の発展を阻害していたため、埋め立てることになった。どこの土砂を使ったらいいか、という話になり、呉羽山を削ったらどうかなど、いろんな話が出たが、運河(富岩運河)を掘って、その掘削土を埋め立てに使うという一石二鳥の妙案が出され、その案が採用された、という。これは、都市計画事業として、昭和6年6月12日に起工式が行われた。

富山の先人たちは、なかなか面白いことを考えついたものだ。

さて、高度成長期の昭和50年代、松川を埋め立てる(というか、蓋をして駐車場にする)計画があったそうである。
これは、汚泥にまみれ、悪臭を放ち、街のイメージを損ねるぐらいなら(臭いものには蓋をして?)経済的に活用した方がいい、ということらしい。また、松川沿いの違法駐車があとをたたなかったという理由もあったらしい。しかし、当時の佐藤工業の偉い方が反対し、蓋をする計画は破棄された。その方は川や川べりの自然が人に潤いや安らぎを与えることをおそらく知っておられたからであろう。経済一辺倒ではなく、そういう部分も大切、残しておかなければ…と。

さて、富岩運河もモータリゼーションの進展とともに、あまり使用されなくなり、ヘドロがたまり、誰も近づかなくなり、夜は一人で歩けないというくらいこわい場所になっていったため、前の知事の時には埋め立てることが決まっていたそうだが、中沖知事になってからこれを撤回、保存・活用していくという方針転換を行い、現在の見違えるような環境整備事業へとつながっている。このように、富山市の近代化の過程で誕生した松川・いたち川・富岩運河は、まさに「富山市近代化のシンボル」といえる。
さて、2015年3月14日に長年の夢である北陸新幹線が開通した今でも、富山市内に魅力が少ないのではないか?という議論がたびたび起こっている。もちろん、車で行けば、呉羽山山頂展望台、民俗民芸村(売薬資料館)、ガラス工房、近代美術館・水墨美術館、森家、内山邸、金岡邸、浮田家など県外の人にも珍しい場所があるのだが、市内中心部ということになると、やっぱり魅力が薄いのは事実。ただ、近年は、高志の国文学館や、ギャルリ・ミレー、市立のガラス美術館や刀剣を中心に展示する秋水(しゅうすい)美術館がオープンし、更には、環水公園への近代美術館の移転など、施設が充実されてきているので、魅力は高まりつつあると感じられる。市内電車環状線・セントラムも大きな魅力となっている。

富山市に歴史が感じられる施設が少ないのは、1945年8月2日未明の富山大空襲で50万発を超える焼夷弾が落とされ、富山市の中心部が焦土と化したことが大きい(死者2700人以上、負傷者は約8000人以上)。富山らしい歴史的なものがほとんど、一夜にしてなくなってしまったのである。(参考記事
人が観光する場合、訪れた土地ならではの歴史、風景、味覚などを楽しむ。富山市中心部は、その歴史・風景がなくなってしまったのだ。

そんな訳で、中心部に富山らしさが欲しいわけだが、「富山らしさとはなにか?」という問題が必ず浮上する。それはかつての富山の歴史的なものを再現すると同時に、今まさに富山で生活している私たちが考え生み出すもの。歴史的なものと近代的なものとが渾然一体となっている街。目に見える建物や文献などの多くは主に戦災でなくなってしまったから、歴史的なものは掘り起こして再現するしかないだろう。

そんな中で、「帆船が行き交ったかつての神通川のにぎわいをもう一度!」ということで、昭和63年4月、神通川のかつての河道・松川で遊覧船の運航が始まった。地元経済界と国・県・市がタッグを組み、自分たちのできることで協力しあって、官民一体となって、街の中心を観光客で活性化しようという趣旨であった。そうした経過の中で、松川に土川から浄化用の水を取り入れる為の可動堰と取水門の建設(国)、松川の浚渫(遊覧船会社、県土木事務所)や、土川取水門のゴミ取り機の設置(国)、周辺の遊歩道の整備(県)などが進み、松川べりは以前に比べ、大変美しくなってきた。春のお花見シーズンには県内外からたくさんの人々が松川べりを訪れ、思い思いに楽しい時間を過ごす。約25年前にはこれほどのにぎわいはなかった。

一方、歴史と文化に囲まれた生活環境の創造と、富山のイメージアップ、観光客へのアピールなどの意味で、明治時代に少年時代の約2年間を富山市で過ごした滝廉太郎氏をクローズアップ。「荒城の月」の曲のモデルでは、という新説も発表され、全国的に注目を集めることとなった。そして、この発表をきっかけにして、毎年、音楽祭が開催されるようになった。(当初は「滝廉太郎祭」と呼んでいたが、10回目の節目で「滝廉太郎記念 富山音楽祭」と改称。ここ数年は、「リバーフェスタとやま」で滝廉太郎の曲も演奏。2015年には、滝廉太郎研究会が発足。)また、遊覧船の乗り場「松川茶屋」内の観光展示室では滝廉太郎にまつわる資料を展示し、街の雰囲気を芸術的なものとすることに一役買っている。また、遊覧船にも、「富山城丸」「松川丸」「舟橋丸」などとともに、「滝廉太郎丸」「荒城の月丸」「滝廉太郎II世号」といった名前が付けられた。すでに完成している滝廉太郎の青年像がしかるべき場所に設置される頃には、富山は今以上に歴史や文化の薫りのする都市になっているかもしれない?いずれにしても、富山の歴史とか文化がわかって、自然も一杯で、水もきれいで、人々もよくて、食べ物も美味しくて、かつ、富山らしい料理とかもあって、癒される、ということが一度に体験できる核となる場所をつくりましょう。

まず必要なことは、松川の水位を一定に制御すること。松川は、上流の松川水門で、上流からの水を神通川に放流できるのだが、途中、助作川などの小河川や土管からの流入があり、更に、下流のいたち川で合流しているために、いたち川が増水すると、逆流が起こり、松川の水位まで上がるという複雑な状況になっている。さらに悪いことには、その土管からは雨水だけでなく、雨量が多い時は下水も混じるそうである。簡単にはできないと思うが、まず下水を入らないようにして、更には雨水も入らないようにして、いたち川の合流点の問題もなんとかクリアして、松川の水位の一定化を実現する。そうすれば、水際の散歩道(リバーウォーク)に冠水することがなくなり、歩いていて泥に足をとられることもなくなる。落ち葉などは掃除しないといけないが、基本的に美しくなると思う。 → 2018年5月に、合流式下水道のために下水がまじる問題と中心市街地の浸水被害の解消のため、巨大な地下貯留管が供用を開始している(参考リンク)。いたち川が増水すると松川まで水位が上昇するという問題は、いたち川の上流に、神通川までのバイパス〈例えば、地下河川など〉を作ることができれば、莫大な費用がかかるが解決する可能性がある。このメリットは、富岩運河まで遊覧船が行けるだけでなく、いたち川沿いの環境改善にもつながる。松川同様、リバーウォーク沿いには、水際にカフェをつくることも可能になる。(地下河川化の試案はこちら

水位の一定化が実現すれば、リバーウォークの延伸と、対岸側にもリバーウォークを作りたい。塩倉橋や安住橋の下もくぐれるようにして、ずっと下のレベルのリバーウォークを歩けるようになったら素晴らしい。そのまま、富岩運河まで歩ければなおよい。水位の一定化と共に実現させたいことは、水質の改善。できたら、森の小川のような清らかな水が流れていて欲しい。

そして、次の段階としては、景観の改善。今、護岸が丸石になっている。のっぺりとしたコンクリートに比べれば断然いいけれど、やはり風情が感じられない気がする。同じ石でも芸術性(石垣風とか?)を取り入れて欲しい。

更に次の段階として、水際のリバーウォーク沿いにカフェ、レストラン、パブ、雑貨屋、ブティック、本屋、富山の物産が並ぶバザール的空間、富山の観光案内所、博物館や美術館などが出店できるようにすること。なお、商品や食べ物は、富山らしいアレンジが加えられていて、富山らしい店員さんによって販売されるといいのではないだろうか。たとえば、ソフトクリームなら、昆布ソフトクリームとか、薬膳ソフトクリーム、カフェでは昆布茶や薬草茶がメニューにあるような。雑貨屋では、富山県内各地の名産品、八尾の紙とか、富山の土人形、富山らしいお菓子など。ブティックでは、おわらの衣装。本屋では、富山の歴史書など。
なお、堤に植わっている桜の木は部分的に再配置が必要になるかもしれない。

あとは、イベント。おわらをはじめとした県内各地に伝わる祭りのショー。その他にもいろいろ音楽や演劇を披露する。

松川、いたち川べりがこんなふうになったら、市民から見ても楽しそうだし、観光客も楽しめるのではないだろうか。
ここを訪れると心が癒されてリフレッシュでき、元気になれる。明日への希望が出てくる。心に輝きがもたらされる。そんな場所になってほしい。
皆様のご意見をお待ちしています。。。

アメリカ・サンアントニオの川べりのレストランの夜景

資料:ベネチア、サンアントニオ、松川の「川の違い」