←時代をさかのぼる | 時代をすすむ→

 松川遊覧船のりば付近は江戸時代、神通川で船遊びを楽しむ富山藩主の舟のりばとして利用されていたと言われており、藩主が使う御船蔵もありました。
明治時代になってからも、船着き場として利用されていました。ここには、大きな目立つクルミの木が1本あったことから、船頭さんたちから「クルミジタ(胡桃下)」と呼ばれていたそうです。
 
この写真は、松川茶屋正面に向かって左横から奥の方向を見たもので、富山城の北側の内濠※が残っていた頃の風景です。
奥の橋は、現在の景雲橋のあたりでしょうか。また、右手奥には神通橋が見えます。
 松川茶屋は、神通川と富山城の北側の濠の間に立っていることになります。
※濠(ほり)…城への敵の侵入を防ぐ溝のこと。
 明治15(1882)年12月、船橋が木橋の「神通橋」に架け替えられ、明治20(1887)年6月、この神通橋近くに富山初の西洋料理・会席料理店「対青閣」(下の絵)が竣工しました。
 明治19年(1886)年8月、富山県書記官(現在の副知事相当)として一家で赴任した滝廉太郎の父・吉弘氏は、明治21(1888)年5月に非職となり、この「対青閣」で送別会が開かれました。
滝廉太郎は、小学校1年から2年弱、富山城三ノ丸跡にある富山県尋常師範学校の附属小学校に通っています。