【ヴェネツィア】

まず、ヴェネツィアについて考えてみよう。
ヴェネツィアは、最も繁栄した時代は、現在のニューヨークのように、世界経済の中心であったという。
(ただし、ニューヨークのように都市ではなく、都市国家であった。)
なぜ、世界経済の中心になりえたかというと、地中海貿易の大半を独占できたからである。
ところで、ヴェネツィアの生い立ちには大変悲しい物語がある。それは、自分たちの住んでいた土地(ヴェネト地方)に蛮族(フン族)が進入してきて家屋を焼き払い、住民を皆殺しにして回ったので、逃げ場のなくなった人達が、海上の潟で生活せざるをえなくなったところから始まる。最初は、漁業と塩田での塩の製造で生きながらえていたそうだ。
フン族は、中央アジアに住んでいた遊牧民で、気候の変化などの理由で4世紀頃から西に向かって移動を始めた。彼らは騎馬民族で訓練された強大な戦闘部隊を持ち、途中にあるものをことごとく追い払った。その結果、彼らの通り道に住んでいた民族がドミノ式に逃げ始め、西ローマ帝国を滅亡に追いやっている。彼らはハンガリー草原を気に入って落ち着き、そこを拠点に勢力を広げ広大な帝国を作り上げた。〈ちなみに、ハンガリーは「フン族の国」というのは俗説で、「オノグル人の国」という意味らしい。〉
アッティラ王の時代が最盛期で、ヴェルディの歌劇「アッティラ」が有名。ただ、アッティラの死後は主導権争いが起き、帝国は瓦解した。

潟(ラグーナ)に逃れた彼らヴェネト人達は潟に家を建て始めた。が、大きな公共建築物を建てることはできなかった。なぜなら、潟の底は柔らかな泥土であったからだ。しかし、その下は比較的固い粘土と砂の混じったカラントと呼ばれる層があり、彼らはその層まで届く5〜10mの唐松の杭を何本も打ち込んで、その上に水に強い石(ユーゴスラビアから運んだイストニア石)を基礎として敷き詰め、その上に煉瓦を積んで建物を建てていった。(現在では、120を超す小島(建物)と小島の間に170を超える小運河と一本の大きな運河(カナルグランデ)があり、小島を行き来するために400もの橋が架けられている。)
さて、彼らは自ずと船を操ることに秀でるようになり、その技術を生かして、世界の海へ出かけ、中継港を確保し、貿易を増やしていった。10世紀頃の主要な輸出品は木材と東欧からの奴隷だったそうで、それをエジプトのアレクサンドリアでイスラム商人に売り、金銀で支払いを受け、それをもってビザンチン帝国の首都コンスタンチノープル(今のイスタンブール)へ行き、香辛料(コショウなど)や布地、金銀の細工品、宝石類を買い込み、ヴェネツィアに戻ったという。それらはヨーロッパへ輸出された。「ベニスの商人」の誕生である。
また、第4回十字軍(1202-1204)でフランスの諸侯を中心とした十字軍兵士に商売敵のコンスタンチノープルを攻めさせ、地中海貿易をほぼ独占するに至った。これは、フランス諸侯達がお金がなくて戦場までの船賃を払えず、船賃代わりに仕方なく戦ったようだ。(なお、コンスタンチノープルはキリスト教国)
ヴェネチア商人の商魂の逞しさが知られる話である。
そうした中、ヴェネツィア人のマルコ・ポーロが父親と一緒に中国へ行き、その時の体験が後に『東方見聞録(世界の記述)』となって世に紹介され、その後、大航海時代が始まった。
有名なのは、コロンブス(イタリア・ジェノバ出身)で、スペイン・イザベラ女王の援助を受けてインドや黄金の国・ジパング(日本)を目指して旅をする途中に1492年、アメリカ(インドと勘違いしたが、実はカリブ海のバハマ諸島。彼はここをサン・サルバドル〈聖なる救済者〉と名付けた。)に西洋人として初めて到達したこと。(スペインが西回りでインドを目指したのは、既にポルトガルが東のアフリカを回る航路を押さえつつあったため。)
しかし、ヴェネツィアにとってより大きな事件は、ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマが、1488年にバルトロメウ・ディアスが発見した喜望峰を回航してインドのカリカット(カルカッタではなく、現在のコーチンの北の都市)に到達し、マルコポーロが『東方見聞録』で記述した「こしょう海岸」(マラバル海岸)の現地調査を行ったこと(1498年)。この行動は、現地人やアラビア、ペルシャの商人達に脅威を感じさせ、ポルトガル人排撃の空気され漂ったが、苦労の末、バスコ・ダ・ガマはスパイスで船倉を満杯にして、母国の港に帰港したという。(ただし、その後のポルトガル人は武力を使うようになったというが…)
主にスパイスの貿易で利益を得ていたヴェネツィア商人にとってこのポルトガルによる独自ルートの開拓は大変な打撃となったようだ。これによって、インドからペルシャ、アラビアを経由した香辛料の輸送ルートは急速に廃れ、ヴェネツィアはそれまでの繁栄から斜陽の道をたどることになった。(その一方で、ポルトガルは栄光の時代を迎えることになった。)また、イギリスでの産業革命も影響があったらしい。しかし、トルコやジェノバなどとの数々の戦いを乗り越え、1797年にナポレオン率いるフランス革命軍によって制服されるまで、697年の初代元首就任から実に1100年間、ヴェネツィア共和国は独立を維持したのである。

ちなみに、1295年にマルコ・ポーロが中国から戻り、珍しい話を聞かせて有名になったものの、「マルコの作り話だ」という嘲笑を受け、再び知らない国に向かって旅立った。ところが、当時ヴェネツィアがジェノバと戦っており、地中海に出たとたんにジェノバの海軍に捕まって捕虜になってしまう。同じ牢獄に捕虜となっていた作家ルスティケロが、ポーロの話に興味を持って暇に任せて彼の話を書き取り、それが『東方見聞録』(1299年)となった。コロンブスも138種類もあったという写本の一つを持っていたという。
なお、スパイスに関しては、マゼランの世界一周との関わり、インドネシアのモルッカ諸島のクローブとナツメグの話などおもしろい話があります。

また、「世界史講義録」というページでも、いろいろこのへんのことが詳しく述べられていてためになるとおもいます。
http://www.geocities.jp/timeway/index.html

ところで、私たちがヴェネツィアに憧れを抱くのは、海上都市であること、絢爛豪華な建築物が立っていること、ゴンドラがあること、ガラス細工に優れていることなど、いろいろあると思うが、もう一つの側面として、彼らの「自由・平等・同胞愛」という精神的な面もあるのではないだろうか?
「JapanOntheGlobe(104) 国際派日本人養成講座 平成11年9月11日発行」ではその点を指摘している。是非、下記リンク先を読んでみてほしい。大変興味深い内容だ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog104.html

さて、ヴェネツィアの歴史は、船運を利用したという面で、北前船(地元の人は、バイ船と呼ぶ)廻船問屋が集まった岩瀬の繁栄に通じるものがある。

なお、北前船については、ミツカン水の文化センターのホームページの
「北前船から北洋漁業へ -富山『バイ船文化研究会』が見た大日本海時代-」
に詳しく書かれているのを発見しました。是非ご覧下さい。(下記リンク)
廻船問屋の子孫の方による座談会なども載っています。
http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/toyama5/index.html

(現在、岩瀬の港である富山港は富岩運河の河口?にあるが、当時は神通川の河口にあった。河道直線化の際に流れてきた土砂が港を埋めてしまったため、河口とは別のところ、つまり富岩運河の河口に新たに港を造った。)
江戸時代、富山の薬売りが函館で買い付けた良質な昆布を薩摩に持ち込み、薩摩藩は沖縄(当時の琉球)を通じて中国へ密輸出。昆布の見返りに中国からは日本国内では手に入らないジャコウ、リュウノウなど貴重な薬品の原料を輸入していたそうである。(この密貿易により富山の薬売りはもちろんのことであるが、薩摩藩も莫大な利益を得ることができ、当時ひっ迫していた藩の財政を建て直すことができた。さらにその利益を原資としてガラス、陶磁器、紡績、大砲などの工場を建設し、後の明治維新の原動力ともなったという。)

その北前船からおろされた昆布、ニシンなどが小さな船(40石ぐらい?)に積み替えられ、富山城のそばを流れていた神通川を往来していた訳である。
当時の東岩瀬は、加賀藩領だったそうで、加賀藩の財政も潤していたのだろうか?
いずれにしても、ここで富山はヴェネツィアと重なる訳である。
(もちろん、ヴェネツィアのように海上都市でもなければ、市内を運河が張り巡らされている訳ではないけれど…)

※各所にいろんなホームページからの表現の引用があります。

(参考文献)
今のところ、ヴェネツィアに関する日本語による最も詳しい本は、塩野七生さんの「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」(新潮社)ではないかと思う。

建築の観点からは、陣内秀信さんが「ヴェネツィア 水上の迷宮都市」ほか数冊の本を書いておられる。

カラフルな写真や昔の絵画が満載なのは、『図説 ヴェネツィア 「水の都」歴史散歩』(河出書房新社)である。