Special Talk[ 馳越100年 ]
神通川から生まれた富山市街


2003年は、富山県の重要な川である神通川が直線化する「馳越線工事」の完成からちょうど100年の節目でした。この大工事の完成によって、富山市が洪水の災害から守られることになり、また、神通川の名残である松川が誕生し、廃川地を中心として今日の富山の基盤が築かれることになりました。

馳越線工事で生まれた『松川』の変遷

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お話/
松川べりに生まれて80余年。
富山観光遊覧船船頭を務めた 藤田清五郎さん

 

松川べりで生まれ育った藤田清五郎さんは、この馳越線工事のことを「はせこじ」といいます。
「たぶん『馳せ工事』を縮めたことばだと思う。私ら子供時分の頃は、神通大橋のことをみんな”はせこじの橋“と呼んでいた。馳越線工事の完成と同時にかけられた橋だからでしょう」
藤田さんは明治36年の工事完成から17年後の大正9年、松川べりの七軒町に生まれました。お父さんは神通川の漁師。藤田さんも15歳から漁に出たそうです。
「昭和5年に堤防が改修されるまで七軒町の松川べりには、なだらかな草土手が続いていました。松川はいまほどの川幅で、深さもなく、子どもたちは泳いだり、魚をとったりして遊びました。私もハゼをヤスでついたり、船で橋の下へいき川エビをとりました。松川橋下流にはその他、鯉、鮒、スナクグリ、針魚がいました。松川橋上流は川の両岸が手でつんだ石垣だったため、改修前までは奥に川ガニ(モズクガニ)、鰻、鯰もいました。鮎の時期になると鮎も泳いでいたものです」
藤田さんが子どもの頃には、かつて本流であった松川には、もとの神通川の水が流れ、魚がたくさんいて、子どもたちが泳ぐこともゆるされる川でした。松川べりにはどんな光景が広がっていたのでしょうか。
「あたりの風景は、ただ神通川の廃川地が広がっていて、ほとんど草っぱらだった。廃川地には、神通中学(現在の富山中部高校)があり、神通グランドでは野球の試合や、富山市の小学校の合同運動会がありました。昭和11年には県庁から電気ビルのあたりまで『日満産業大博覧会』が開かれ、楽しみに見にいきました」
この頃から、富山市は大規模な都市計画法にもとづき、近代的都市づくりへと進んでいきます。
ところが、第2次世界大戦の富山大空襲で富山市街地はほぼ焼け野原に。戦争にいっていた藤田さんも生家をなくしてしまい、現在の松川橋そばに移り住んだそうです。松川べりにはその後桜が植えられ、全国のさくら名所百撰に選ばれるまでになりました。
しかし、街の復興、近代化とともに、松川の水は姿を変えていきました。
「神通川の川底が下がりはじめ、昭和40年代頃には、松川の水が逆流するまでになった」のです。その頃から水量が減った松川には、農業用水である土川から水を入れる工事が行なわれました。コンクリートで目ぬりされた護岸や川底。ドジョウやナマズは姿を消し、大雨が降れば、雨水との合流管となっている下水管からの水が流れこんでくる構造は今も変わりません。
かつての清流を私たちは想像することができないかもしれません。それでも「遊覧船が運行されてからは松川そのものは間違いなくきれいになった」と藤田さんはいいます。
いま、松川のゆるやかな流れに遊覧船が浮かび、色とりどりの鯉が泳ぎ、うぐいが飛び跳ねています。この光景は、地域住民の皆さんがゴミを拾ったり、藤田さんはじめ船を操る松川べりの船頭さんが、長くなった藻を取るなど、川の環境が人々の手で守られているからこそなのです。

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*馳せる(はせる)とは、水が堤防を越えてほとばしり出るという意味の言葉で、馳越(はせこし)は富山県だけで使われる土木工事用語という。
「神通川馳越線工事」とはどんな工事だったのでしょうか。かつての神通川の歴史を残すこの川は、人々とどのように関わりながら流れてきたのでしょうか。2003年、富山市街地の運命をきめた工事の完成から100年の年をきっかけに、その歴史を紐といてみたいものです。皆様のご意見をお待ちしています。
※月刊グッドラックとやま 2002年12月号で掲載したものです。

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