読めばわかる! 神通川・富山城・松川・富岩運河の歴史

月刊グッドラックとやま誌上において2003年7月〜9月まで3カ月連続で特集した「神通川と松川の歴史(馳越線工事を振り返る)」という記事が読めますが、ここでは、その後の調査でわかったことなどを交え、まとめてみました。

遊覧船が運航している松川と、神通川、富山城、富岩運河とは、実は大変深い関係があります。少し長くなりますが、振り返ってみましょう。
富山城は、天文12(1543)年に守護代・神保長職(じんぼうながもと)が家臣の水越勝重に命じて現在の場所に築城させたといわれています。天正8(1580)年、織田信長の家臣・佐々成政が長職の子とされる長住の助勢として、対一向一揆・対上杉氏の最前線である越中国に入国。その年、神通川は、左岸側から注ぎ込む井田川の大洪水により右岸側に大きく振られ、現在の富山市内中心部の位置を蛇行して流れるようになりました。天正9(1581)年、成政は越中半国を与えられ、翌年長住の失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城としました。この時、成政は富山城を堅固な浮城にするため、神通川の蛇行が始まる場所に巨岩を積み重ねた頑丈な石垣堤防「早瀬の石垣(はやせのかいき)」を築き、蛇行した川筋を固定しました。さらに、下流の八田ノ瀬には巨木を積んで有事の際には天然のダムにできるようにしました。つまり、神通川を富山城の天然の外堀に仕立てたのです。【ちなみに、「早瀬の石垣」が大洪水によって決壊するのを防ぐため、文政5(1822)年に、3万人をもって、神明社裏から愛宕神社の南裏まで、二重堤防を築き、さらに「水抜き」として油川用水を掘削し、神明社の裏で、五福から流れていたドンマ川と合流させたといいます。しかし、明治28年10月の出水で「早瀬の石垣」は大きな損傷を受け、明治32年9月9日についに崩壊したとのことです。】

成政はその後、豊臣秀吉に歯向かったために10万の大軍に攻められ降伏します。成政が肥後に転封された後は前田氏の持城となりました。なお、2010年春、富山市郷土博物館の学芸員、萩原大輔さんが、歴史研究誌「富山史壇」(越中史壇会)161号において、「秀吉が佐々成政を攻めた際、富山城に入城していた」とする論文を発表し、新聞にも大きく掲載され話題となりました。「成政が降伏した後、秀吉は富山城に入り、そこで上杉景勝と会見するつもりだったのですが、景勝が来なかったため、怒って、それなら大坂城に出頭せよと言って帰ってしまったんです。富山城は秀吉の天下統一事業における重要な舞台だったということをもっと知ってほしい」と話しておられます。
慶長2(1597)年、前田利長が守山城(高岡の二上山の支峰に築かれていた)から富山城に移りましたが、翌年、前田家の家督を継いだため、前田家の本拠地・金沢城に移っていきました。

慶長10(1605)年、利長は44歳という若さで、利家4男でまだ12歳の利光(後に利常と改名)に家督を譲り、隠居して、富山を養老の地としました(将軍徳川家康との不仲により反乱の嫌疑をかけられた為だそうです。 詳細)。そして、飛騨横山や能登羽喰山からも用材を求め、若狭・越前からも大工を集め、富山城の本格的な補修工事をおこないました。また、この時、高さ2mを超える巨石を割って、最も重要な大手側入口の石垣に5つの鏡石が組み込まれました(詳細)。(「鏡石」は、有力な大名が権力・財力を誇示するため用いたとされ、江戸城・大坂城・金沢城等大藩の城に見られ、慶長期に流行した手法だそうです)。
同時に城下町の整備も進め、光厳寺が砺波郡増山から清水に、浄禅寺が新川郡新庄から寺町に移されました。「慶長十年富山侍帳」によると、金沢から640人の家臣団を引き連れてきたようです。なお、この侍帳には、竹屋、銀屋、鍛冶屋、大工、塗師、畳刺などの各種の職人や芸能民が記されているそうです。
また、この時、それまで富山城の北方、神通川の対岸を北陸街道が横切り、渡し舟で神通川を渡河していたのを、北陸街道を富山城下に取り込んで城の南を迂回させるため、船橋が架橋されています。
しかし、慶長14(1609)年3月に富山城下のいたち川端の柄巻屋彦三郎方より出火した火事があり、富山城や周辺の町がほぼ焼失。土蔵に難を避けた女中たちもことごとく焼死したといいます。富山の春さきのフェーン現象下の火災は、剱岳から吹き下ろす「剱の火事」と恐れられたとのことです。利長はかろうじて脱出、焼け残った富山・千石町の神戸清右衛門宅に3日間逗留し、ついで魚津城へ避難しましたが、大火の印象は強烈で、利長は富山城再建を諦め、すぐに幕府に使者を送り新たな隠居城を関野(せきの)と呼ばれていた地で建てることを願い出ました。ちなみに、江戸時代、1000戸以上の民家が焼失した大火が5回ほども起こっているそうです。最大のものは、天保2(1831)年4月12日正午頃、西田地方の浜田弥五兵衛宅より出火した火事で、南風にあおられてたちまち燃えひろがり、富山城も全焼、人家・寺社など合わせて8300戸余りが焼失し、死者を70人も出したとのことです。
前田利長は、幕府から許可を得ると城を築き、あわせて町立ても行い、そちらに移ってしまいました。関野の地に利長が築いた町は、詩経の一節「鳳凰鳴矣、于彼高岡」に因んで「高岡」と名づけられました。もし、慶長14年の火事がなければ、富山の歴史は今とは違ったものになっていたかもしれません。富山市埋蔵文化財センターのHPによると、「利長は、城の全焼にたいへんなショックを受け、その心情をつづった手紙を多く残しています。次に作った高岡城の水堀がとても広いのも、火の粉が飛んでこないよう富山城での経験を生かした対策だったと考えられます」とのことです。(ちなみに、2009年は、高岡開町400年の記念の年でした。)
なお、高岡城の縄張は、築城の名手であった高山右近が行ったというのが通説となっていますが、富山市埋蔵文化財センターのHPによると、近年、佐伯哲也氏が、「越中高岡城の縄張りについて」の中で、高岡城の特徴である「重ね馬出」の縄張りは右近の思想にはないことから、右近縄張り説を否定し、利長が独自に設計したと考えられると、新しい見解を提示されたそうです。なお、同HPによると、高岡城の縄張は、富山城内郭をモデルとして、防火対策を凝らした構造にバージョンアップしたもの(先にも出たように、火の粉が飛んでこないよう水堀をとても広くした)で、基本構造は富山城を受け継いだものだそうです。富山城は、高岡城とともに秀吉の聚楽第をモデルとした「聚楽第型城郭」であり、隠居城(城郭型居館)とのこと。また、富山城も高山右近が縄張を行ったという説があると増山安太郎氏が述べておられるそうです。
慶長19(1614)年5月20日、利長は53歳で亡くなり、高岡城が隠居城として使われたのはごく短期間でした。翌年、一国一城令により廃城となったと言われています〔廃城時期は、寛永15(1638)年とする説もあるようです〕。
前田利長は、父・利家から、「どんなことがあっても秀頼様を守れ!」と遺言されていたのですが、徳川家康の勢力が日に日に強大になり、利常(利長の異母弟。跡継ぎのいなかった利長の養子となる)は、家康の孫娘(秀忠の娘)と政略結婚させられ、松平の姓を与えられていました。徳川と豊臣の戦いが迫ってきた時、秀頼は利長に遣いを派遣し、「秀吉公との誓いを守って、大坂(豊臣)に味方していただきたい」と言います。利長は、「せがれ(利常)の方は徳川の婿であるから徳川と一味になるであろう。せがれとはいいながら、その心底はわからない。ただ、私が生きているうちは、隠居の私の分の軍勢だけは残らず豊臣方に差し上げよう」と答えました。実際に豊臣と徳川の戦が始まれば前田家としては深刻な事態。しかし、ちょうどその頃、利長が亡くなったのだそうです。「利長様は御自身で毒を飲まれた」というのが、江戸時代の加賀藩では公然の秘密であったそうです。(この段落、磯田道史著『殿様の通信簿』より)

寛永16(1639)年、加賀藩2代藩主、加賀前田家3代の前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立しました。(ちなみに、三男・利治に大聖寺7万石〔のちに10万石〕を与えて分家させました)富山藩の家臣団の数は、707名でした(1838年には、1749名に増加)。翌年、利次は、加賀藩より借り受けた富山城に入りました。当初は、現在地よりも下流の左岸側(富山市百塚)に新たに築城の予定だったからです。ところが、財政難などからこの計画は取りやめとなり、分藩して20年後となる万治3(1660)年、加賀藩との領地交換を願い出て、許可を得、富山城周辺は富山藩領となりました。
翌年から、幕府の許可を得て富山城を本格的に修復し、城下町を整えました。

富山城は、

 ◆本丸…藩主の住居でもあった本丸御殿がありました。
 ◆ニ之丸…侍番所や時を告げる時鐘所がありました。入口には富山城で最も重要で最も立派な二階櫓門が建っていました。
 ◆三之丸…藩の学校や役所、上級家臣の屋敷が建っていました。富山城で最も大きな曲輪でした。
 ◆西之丸…米を納める土蔵などが建っていました。
 ◆東出丸…江戸時代後期には、産物方役所がありました。
 ◆千歳御殿…嘉永2年(1849)、藩主を隠居した前田利保によって東出丸に建てられました。6年後の安政2年(1855)に城下からの出火で消失してしまいましたが、門は焼け残り、富山城の唯一残る遺構となっています(平成20年に、明治時代に払い下げられていた富山市郊外から、富山城内への里帰りが実現。その時の解体移築工事で、部材の一部に「嘉永2年」の墨書が発見されました)。県下はもとより全国的に見ても藩政期における数少ない御殿の門とされ、同一の建築様式となる城門は「東大の赤門」で知られる重要文化財指定の旧加賀屋敷御守殿門だけである、とのことです。なお、江戸の加賀藩上屋敷は、現在、東京大学本郷キャンパスに、富山藩上屋敷は、東京大学医学部附属病院になっています。

から構成され、広さは南北約610m、東西約680mで、現在の富山城址公園の約6倍もありました。天守閣を建てる計画もありましたが、財政的な理由などから実際には建てられませんでした。以後、明治維新まで、富山城は富山前田家13代の居城となりました。
*現在の富山城天守閣は、本丸鉄(くろがね)御門のあった場所に、昭和29年富山産業大博覧会を契機に建てられました。中は、富山市郷土博物館となっており、富山城の歴史を詳しく学ぶことができます。ちなみに、富山市郷土博物館の「博物館だより」では、上記の富山の歴史が詳しく解説されていておすすめです。

 

富山観光の定番・松川遊覧船が運航する旧富山城下と現況

 

旧富山城下と現況

木町の浜

旧神通川(今の松川)といたち川が合流する、現在の本町一帯は、木材の集散地だったことから「木町の浜」と呼ばれ、飛騨木材が神通川によって川流しされ、ここで引き揚げて貯蔵し、また舟に積み、回送していました。元禄5(1692)年、幕府は江戸町形成に必要な木材を得るため飛騨国を直領(天領)とし、飛騨木材を伐採して、神通川・庄川を川下げして河口の東岩瀬港(高原山伐採分)・伏木港(白川山伐採分)から主として上方船によって江戸へ海上輸送を行なうようになりました。飛騨国より供給を絶たれた加賀藩は、用材の不足補充を松前・奥羽地方に求めたため、その海上輸送は北前船の活動分野を拡大化し、海商の成長を推し進めることになり、東岩瀬港がその輸入港の一つになったといいます。

 

木町の常夜灯

木町の常夜灯

また、東岩瀬港(西岩瀬港も?)から木町の浜まで、40石積の艀舟等によって、能登(一部は瀬戸内)からの塩や、北前船で大阪・堺等から運ばれてきた薬種、同じく北前船で北海道から運ばれてきた鰊粕(にしんかす:ニシンを煮て、圧搾して油をとったあと乾燥させたもの。窒素・燐に富み、魚肥として使用された。菜種、藍、綿花栽培などの肥料として高い商品価値を持っていた)や昆布などを運んできていたようです。また、ここからは、神通川上流の八尾・笹津まで魚や塩物を運ばれ、帰りは薪・酒を積んできた舟もあったそうです。いたち川からも木梠(ころ)や木材が運ばれました。近くには、薪や炭を扱う町(黒木町)、材木屋の町、魚市やかまぼこ屋の多い町がありました。現在も少し残っています。
「塩倉橋」という橋が、遊覧船乗り場のそばにありますが、この近くに塩の蔵があったことに由来しています。なお、越中では製塩地が少なかったため、元禄(1688〜1704)から瀬戸内で作られた塩が移入され、天明(1781〜1789)〜寛政(1789〜1801)ごろからは、宗家加賀藩の能登塩が増産され、瀬戸内塩を駆逐し、年間3万俵から5万俵も輸入されていました。そのうち、3万俵は富山藩領で消費され、残りの分は飛騨へ売られました。能登塩の移入には地方船が利用され、東岩瀬・滑川・魚津などの塩蔵に積まれたといいます。塩の販売権は、神通川が当初は今よりも西側の西岩瀬町横を流れていた(後で出てきます)ことから、はじめ西岩瀬町が独占権をもっていて、繁昌のもとの一つであったそうです。
また、木町の浜は、米の積み出しにも利用されました。富山城の北西端の外堀に面してあった「赤蔵」、木町の北端に神通川に面してあった「木町蔵」、富山城の南枡形から南に延びる千石町通りの東にあった「千石町蔵」、愛宕町の北端(旧愛宕小学校跡地)にあった「愛宕蔵」の各御蔵の年貢米は木町の浜まで運ばれ、川舟に積んで下流の西岩瀬・四方港まで運ばれ、そこで北前船に積み直され、大坂へ運ばれました。その量は、年間1万石から1万5000石であったそうです。
神通川とその支川の舟運の担い手は富山木町の舟方衆が中心でした。木町の舟数は、文化5(1808)年に20〜23石積みの平太舟が15艘、3〜4石積みのいくり舟が62艘あり、七間(軒?)町には、いくり舟が15艘、船頭町にいくり舟が34艘あったとことです。
呉羽山の「長慶寺五百羅漢」は、富山町で米穀商と廻船問屋を営む黒牧善次郎が松前へ米を運んだ帰りに運ばせたもの。佐渡椿尾村で刻まれた羅漢像は、北前船で佐渡島・小木港から東岩瀬まで運ばれ、そこで川登船に積み直されました。そして、この木町浜口で陸揚げされて荷車で長慶寺まで運ばれたといいます。
なお、延享3(1746)年、大洪水で多数の水死者が出て、木町の浜にも遺骸が打ち寄せられたため、供養のため、「万霊塔」が建立されました。

また、舟運は、神通峡(片路峡)手前の富山市寺津(旧大沢野町寺津)まであったそうです。神通川第二ダムの少し上流の右岸側には、「牛ケ増口銭場跡」の碑が建てられています。(木町からだと、船橋でひっかかるので、木町で一旦荷物を卸して荷車等で船橋上流側に運び、そこの小さな川湊で再び船に載せて運んでいたようです)

なお、いたち川の川べりには、大正のころまで、10カ所以上の水車がかかっていたそうです。精米、製粉はもちろんん、薬の原料の粉砕や、菜種油をしぼる水車、線香つき水車があって、コットン、コットンとのどかな音を響かせていたそうです。また、いたち川には、17の地蔵・観音様のお堂があり、水神様は4社もあります。いたち川の水源は、常願寺川の馬瀬(ませ)口で、水害の半分はここが切れて起こりました。水害のたびに多勢の人が亡くなったので、供養の地蔵様と水害が起こらぬように祈った水神様です。

なお、いたち川は、宮本輝さんの芥川賞受賞作「蛍川」に出てきます。主人公・竜夫の異性への淡い思いと運命を描き、クライマックスに蛍が乱舞するシーンです。川沿いには、「蛍川文学碑」が建てられています。宮本輝さんは、小学校4年生の時に、豊川町、大泉のいたち川の川べりに1年間住んでおられました。

 

(補足)西岩瀬港と東岩瀬港

神通川の河口は、少なくとも江戸時代初期においては、西岩瀬・四方付近を流れていたそうで、それ以前は、打出を流れていたこともあったようです。
正保4(1647)年の「越中道記」には、400〜500石の船が何風であっても50〜60艘も港入りができ、空船であれば200艘も入港できると記されているそうです。当時のにぎわいが偲ばれます。
ところが、万治2(1659)年、神通川は大氾濫によって大きく東岩瀬側にも分流し、寛文8(1668)年の洪水でついに新しい流れが本流になりました。このため、西岩瀬の船主・船宿の多くが東岩瀬へ移り、西岩瀬港は衰えました。それでも、富山城下の外港として、四方(和合)港とともに機能したといいます。
それを裏付ける話があります。富山古寺町の老舗の能登屋平右衛門家は、天保の頃、長者丸と名付けた650石積の弁財船を所有していました。富山木町の吉岡屋平四郎を沖船頭に、ほかに水主9任を乗せ、天保9(1838)年閏4月24日、長者丸は富山藩の大坂廻米500石を積み、西岩瀬港を出帆。5月下旬に大坂で荷揚げしています。
ここからは、余談ですが、その後、長者丸は遭難してしまいます。綿・砂糖などを積んで、大坂を出帆、新潟を経て8月中旬に松前に到着。箱館で大量の昆布を仕入れ、10月上旬に箱館を出帆、南部田之浜で塩鮪(まぐろ)を仕入れ、三陸海岸を航行中、11月23日より大暴風に遭ってしまったのです。太平洋を漂流するあいだ、乗組員3人が死亡。天保10(1839)年4月24日、米国捕鯨船ジェームズ・ローバ号に救助され、残った7名は、同年9月にハワイ島に上陸しましたが、10月23日に沖船頭・吉岡平四郎がホワ島で病死。残った6名は、天保11年7月にイギリスのキャップン・センの船に乗り、ハワイを出帆、9月にカムチャッカのガウエニヤに到着。更に、天保12年7月に、ロシアの船でオホーツク海岸のオホーツクへ。奉公人生活の後、天保13(1842)年7月に出帆、9月にアラスカのシイトカへ。アメリカ商人の下屋敷で7ヶ月生活し、天保14年3月にアレキサンドロ・ニコライヴエチの船に乗り、帰国の途につき、5月にエトロフ島に着きました。6名は鎖国の禁をおかしたことにより、幕府の聞き糺しを受ました。彼らは、加賀藩東岩瀬・放生津の人達だったので、加賀藩からも事情聴取を受け、加賀藩はこれを「時規(とけい)物語」10巻25冊に整理しました。
なお、吉岡平四郎は佐渡組売薬人で、船頭としてはズブの素人だったそうです。当時、薩摩は、越中の売薬商人が持ってくる昆布を中琉貿易により中国に輸出し、巨額の富を得ていたそうです。(なお、琉球王国は、1429年に誕生し、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入りましたが、1879年に沖縄県ができるまで、対外的には独立した王国として存在し、中国大陸と日本の文化の両方の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げました)

※わが国で最も古いといわれる、室町時代に成立した海商法規である「廻船式目」の巻末に記される三津・七湊「越前三国・加賀本吉・能登輪島・越中岩瀬・越後今町・出羽秋田・奥羽津軽十三の湊」の中にある「越中岩瀬」は、その頃まだ栄えていない東岩瀬のことではなく、西岩瀬ということになります。

 

明治6(1873)年、明治政府により廃城令が出され、桜が多く植えられていたという千歳御殿の跡は「桜木町」、それ以外の部分は、「総曲輪(そうがわ)」と名づけられ、払い下げられていきました。また、外堀も埋め立てられていきました。
明治中期、神通川は毎年のように氾濫を繰り返しました(明治23年と24年に大洪水が合わせて5回も発生。明治24年度の県の支出の87%が土木費でした)。
明治24(1891)年8月6日、内務省土木局長の指示で、各河川の視察と復旧計画づくりのためオランダ人技師、デ・レーケが富山を初めて訪れました。翌8月7日に前田富山市長がデ・レーケと面会し、分流案を提案しました。デ・レーケは、この時、

(1)分流工事には約30万円かかる。県予算総額が約70万円であることを考えると相当高額な費用となる。
(2)新河道の施工を安くあげるには、新河道に低水路を掘削し、残りは掃流力を利用して開削する方法があるが、下流域を破滅させることになるのでやってはいけない。
(3)分流案が採用されれば、両側の平野は浸水災害から救われ、衛生状態も改善される。
(4)神通川河口の岩瀬港と富山市の間には物資の輸送などで常時船舶が航行しているが、分流路が本流となれば流速が増して航行が困難となる。また、洪水時に上流から土砂が運ばれて港の水深が浅くなる危険性がある。
(5)流速が増すと、富山市上流にあって養蚕産業などで栄える八尾町との舟運も困難になる、

と問題点を指摘しました。
デ・レーケはその後、常願寺川改修工事にかかりきりとなり、通算190日にわたって直接工事を監督・指揮しました。明治26(1893)年3月には常願寺川改修工事はほぼ竣工し、富山県は次に神通川の改修計画に入りました。
明治28(1895)年、富山県は神通川の改修計画のため、デ・レーケの再派遣を内務省に要請。それが聞き入れられ、同年8月1日から12日まで、デ・レーケは富山を訪れました。そして、3ページにわたる改修計画の報告書を作成しました。
その計画は、

明治28(1895)年7月29日に記録した流量70,000(立方フィート/秒)は現河道で流下させ、
過去最大流量を記録した明治24(1891)年7月の1,118,000(立方フィート/秒)との差、41,800(立方フィート/秒)は、分流路に流す、

というものでした。
ところが、明治29(1896)年に日本人だけで始められた工事(第1期工事)は、川幅を拡張するだけで、分流路は作られませんでした。
しかし、工事が始まった年に4回の洪水に見舞われたことから、富山市は、富山県に請願書を提出し、完全な治水を実現するためには、分流路を開削するしかない、と訴えました【今は止むなく別に婦負郡鵯島(ひよどり)村より百塚村へ貫き、一派の分水路を開墾して、其勢を排殺するの外応に術なかるべし…】。また、第1期工事が終わった年である明治32(1899)年にも9月、10月に相次いで洪水が発生したため、遂に富山県は、デ・レーケが提案していた分流案を採用します。
明治34(1901)年から明治36(1903)年にかけて、北に向かってまっすぐ流れる分流路を作る馳越線工事(はせこしせんこうじ)が行われました。ちなみに、この工事にデ・レーケは関わっていません。
「馳越(はせこし)」とは、ある水位を超えた水が堤防を越えて流れることを言い、富山県だけで使われる用語です。なお、この工事は、デ・レーケがやるべきでないと言っていた方法を採用していました。つまり、川幅を全面的に掘削せず、川幅の中央に幅2m、深さ1.5mの細い溝を掘っただけのものでした。
なお、1丈(3m)以上の増水時以外は水が流れないようになっていましたが、その理由は、農業用水の保護が主な目的だったようです。(というか、馳越線という名前から言えば、それこそ洪水の時だけ流すための遊水池的な分流路として作られたのかもしれません。当局側に、これをゆくゆく本流にするという指針がどれほどあったかは、下流の港に与える影響から言ってもよくわかりません)
当時、西の方から鉄道が延びてきており、明治32(1899)年に現在より西側(富山市田刈屋)に仮停車場が作られていました。そこから東側の路線をどうするかという案が3案出され、検討されました。その中に、現在の場所に作るという案もあった訳ですが、この案は、農業用水を撤去せざるをえないという案でした。富山実業協会という団体は、完全な洪水予防ができるとしてこの案を押し、最終的にこの案が採用され、現在の場所に富山駅が設置されました。こうして、1丈以上の増水時だけ分流路に流すという縛りはなくなり、いつでも分流路に水を流し、本流にするという道が開かれました。ちなみに、この農業用水とは、牛ヶ首用水である可能性があります。「船橋向かいものがたり—愛宕の沿革」(水間直二編)によると、工事が始まる前年(明治33年)5月に、牛島村は牛ヶ首用水からの引水ができなくなるので、水田を畑地として三五町歩を卸すことにし、地主総代武内正次郎名で新聞に広告したとあります。
最初から、分流路を一時的な遊水池的なものとしてでなく、将来本流にすると考えていたのであるならば、なぜデ・レーケが下流域を破滅させるからやるべきでないという方法(最初小さな溝〈低水路〉を掘り、残りは洪水の力で開削するという方法)を採用したのでしょうか?下流に迷惑をかけるということを考えなかったのでしょうか?実際、下流の東岩瀬の港が土砂で埋まってしまい、大問題になっています(こう考えると、やはり一時的な遊水池としての分流路を考えていたのかと思ってしまいます。あるいは、富山市議会が出した請願書でも述べられているように、たびたび発生する洪水被害があまりにもひどく、かといって予算もなく、問題が起きるとわかっていながら、そうせざるをえなかったのかもしれません)。(この結果、大正14年に東岩瀬地区の実業家から神通川を西側に振り元の河口を港にするという要望運動が起こり、大正15年7月に分離工事が完成しました)。
その後、何度かの洪水で馳越線(分流路)が本流となり(大正3年8月の大洪水が本流化を決定づけたと言われています)、かつての本川に水がだんだん流れなくなり、大正10(1921)年に馳越線(分流路)と旧本川上流側との間が締め切られました。その結果、旧本川は広大な廃川地として残り、市街地を分断したため、昭和3(1928)年に決定された都市計画事業において、

(1)富岩運河を掘った時に出る土で廃川地を埋め立て区画整理をし、近代都市を形成する。
(2)富岩運河を掘ることで、富山市北部に一大工業地帯を形成する。
(3)富岩運河を掘った時に出る土で、東岩瀬港を近代港湾へと整備する、

という一石三鳥の効果を持つ「富岩運河建設計画」が立案され、昭和5(1930)年から工事が始まり、昭和10(1935)年に完成しました。その時、廃川地の右岸側が約20mほど残され、それが現在の松川となっています。「松川」という名前は、当時の中州や川辺りにたくさんあった松にちなんで、縁起が良いとつけられたということです。ちなみに、県立図書館長も務められた廣瀬誠さんは、「神通川と呉羽丘陵」(桂書房)という本に、千歳御殿の能舞台にシンボルとして描かれていたであろう大きな松が松川の名に反映したのではなかろうか、と書いておられます。
さて、廃川地の埋め立てにより、市街地の中心に広大な土地が誕生しました。昭和9(1934)年11月、神通球場(現富山中部高校グラウンド)で日米対抗野球大会が開催され、ベーブ・ルースがライトスタンドにホームランを放っています。
また、昭和10(1935)年8月17日に、富山県庁新庁舎(現在の庁舎)が竣工。桜橋も竣工しました。昭和11(1936)年には、日満産業大博覧会が開催されています。現在、廃川地だった場所には、県庁の他に、富山市役所、電気ビル、NTT西日本富山支店、NHK富山放送局、名鉄トヤマホテル、県教育文化会館、北日本新聞社などのビルが建っています。
富岩運河は、高度成長期、交通手段の変化、電力料金の上昇、環境問題などにより工業の立地条件が低下し、運河本来の利用がなされず水面貯木が多くなり、県は昭和54年に運河の埋め立てを表明しましたが、昭和59年に運河をまちづくりに活用する方針転換をし、昭和60年以降、環水公園の整備、閘門の復元、駅北の再開発が行われて現在に至っています。

 

「富山市経営策」(明治34年)より

「富山市経営策」(明治34年)より

富山実業協会が、市区拡張や停車場の位置など、富山市の将来像について提言した書。 神通川が大きく蛇行しているのがわかる。
富山市経営策より、神通川蛇行の図

■参考文献
「近代土木事業史に関する研究 高田雪太郎の生涯と業績」(市川紀一著)
「とやま土木物語」(白井芳樹著・富山新聞社)
「日本の川を甦らせた技師 デ・レイケ」(上林好之著・草思社)
富山市郷土博物館 博物館だより 二十七号、第四十五号
「神通川と呉羽丘陵 ふるさとの風土」(廣瀬誠・桂書房)
「昆布を運んだ北前船」(塩照夫・北国新聞社)
「船橋向かいものがたり—愛宕の沿革」(水間直二編)
「富山市史 通史〈上〉」
「富山県史 通史編 3」
「殿様の通信簿」(磯田道史・新潮文庫)
「富山市街地を流れる 川めぐりマップ」(富山市建設部建設政策課発行)
「神通川むかし歩き」(神通川むかし歩き編集委員会編・桂書房)