富岩(ふがん)運河
一石三鳥を狙った土木遺産

 富山港と富山駅北を結ぶ長さ約5kmの富岩運河は、昭和3年(1928年)に富山市都市計画事業に決定し、昭和5年6月に着工(富山都市計画事業と東岩瀬港第二期修築工事の地鎮祭・起工式は昭和6年6月12日に東岩瀬町で開催)し、昭和9年7月まで工事が行われ、昭和10年1月に竣工した運河です。なお、東岩瀬港の第二期修築工事は昭和11年3月に竣工しています。(岩瀬運河と住友運河は昭和15年に開削)
 富山と岩瀬を結ぶ運河ということで、富岩(ふがん)運河と名付けられました。
 富岩運河は、「富山駅との間に水運の便を拓き沿線に工場の立地を促進すること」「掘削した土砂により、神通川廃川地を埋め立て、市街地を造成すること」「土砂の一部により東岩瀬港の岸壁・ふ頭用地を造成すること」を目的として開削されました。
 なお、富山港(当時は東岩瀬港)は、明治34年(1901年)1月から明治36年5月にかけて行われた神通川馳越線工事(蛇行部をショートカットする分流路をつくる工事)の後、洪水の度に土砂が流れ込み港が浅くなっていました。大正7年から内務省直轄で神通川の改修工事が始まり、河口から大沢野まで22kmの区間にわたり、川幅の拡張や堤防の強化が行なわれましたが、河口では突堤をつくり、浚渫して航路を確保する工事も行なわれました。しかし、この時の工事は、土砂の堆積問題の根本的解決にはならず、東岩瀬町の実業家や富山商業会議所から要望があり、大正10年に神通川を西側に振り、河口と港を分離する計画に変更されました。これはふだん水が流れている部分を港にするというものでしたが、地元の実業家から「どうせやるならこんなちっぽけなものでは面白くない。川幅全部をそのまま港にした方がよい」と東岩瀬町を挙げて要望運動が起こりました。大正14年、国はこの要望をいれて、再び計画が変更され、河道がさらに西へとふられることになりました。大正15年7月、神通川と東岩瀬港を締め切って、川と港を分離する工事が完成しました(東岩瀬港第一期修築工事の全体は昭和3年3月に竣工)。
 ちなみに、東岩瀬町は、運河完成後の昭和15年9月1日に、富山市と合併しました。
 高度成長期、交通手段の変化、電力料金の上昇、環境問題などにより工業の立地条件が低下、運河本来の利用がなされず水面貯木が多くなり、県は昭和54年に運河の埋め立てを表明しましたが、昭和59年に運河をまちづくりに活用する方針転換をし、昭和60年以降、環水公園の整備、閘門の復元、駅北の再開発が行われて現在に至っています。
 2007年3月22日には、「小運河」と人工島「あいの島」が完成。「小運河」は長さ約280m、幅12.5m。「あいの島」には、野鳥観察舎があり、バードウォッチングを楽しめます。「あいの島」は、古くから富山の人々が幸福を運ぶ風として親しんできた「あいの風」、この島が「愛され」、自然と人、人と人との出「会い」の場となるように願って名付けられました。

※2021/10/19、少し文章を追加しました。

■参考文献 『とやま土木物語』(白井芳樹著、富山新聞社)

小運河と「あいの島」(手前側)。左下の建物が、「野鳥観察舎」。